子供のころ、大相撲が大好きだった。小学校に入学した直後も、日ごろからしこ名に親しんでいたせいか、漢字の覚えも速かった気がする。相撲がある日の夕方は、遊び場からすぐに家に帰っていた。優勝の行方が決まる千秋楽は、家族みんなでドキドキしながらテレビを見守った。
そんな小学生時代のヒーローが、千代の富士だった。筋骨隆々の体に、目が釘づけになった。豪快な上手投げや、つり出しに魅了された。苦手としていた隆の里との対戦では、いつも祈るような気持ちだった。大きな父親の腹に頭をつけ、ベルトを前みつ代わりに引きつけて、千代の富士になった気分で何度も相撲を取った。他でもない、千代の富士がいたから、相撲も好きになった。
社会人となり、ゴルフ担当だった7、8年前だっただろうか。横峯さくらの父良郎氏に誘われ、大阪市内の焼き肉屋に行った時、大横綱と初対面した。千代の富士から九重親方となり、春場所に来ていた憧れの人は、怖かった。本紙の過去何人もの記者が洗礼を浴びたように「オレは日刊が嫌いなんだ」と言われ、まずはマッコリをジョッキで2杯続けて飲まされた。すぐに酔っぱらった。「この後、どうなるんだ」と不安いっぱいだった。恐る恐る親方の顔を見ると、笑っていた。その後はおいしいホルモンを腹いっぱい、ごちそうになった。
それから数日後、関係者から連絡があった。大阪生まれで大阪育ちの記者に「日曜日にミナミで空いてる飲み屋は、ないか?」という相談だった。道頓堀周辺を走り回って、営業している飲み屋を見つけると、関係者と一緒に親方も来た。若い女性に囲まれた親方は、焼き肉屋で見せた以上の笑顔で、大いに飲み、語っていた。ストレスとは無縁に見えた。体も締まって、健康そのものに見えた。
大相撲担当になった4年前、正式に取材対象となった九重親方はやはり怖かったが、優しくもあり、そして熱かった。宴会で同僚記者と漫才をした時、スベリ続けて静まり返った宴席から親方の「帰れ!」という怒声を浴び、セリフが吹き飛んだ。稽古場では1日に何度も弟子に対して「コノヤロー!」と喝をいれ、それを聞くたびにこちらも背筋が伸びた。千代丸の十両昇進会見では「もっと自分から稽古しないと。変わらないとダメ」と“公開説教”。だが、千代丸が「好きな言葉はマイペース」と“親の心子知らず”のような珍回答をすると、それ以上怒ることはなく、優しい師匠の笑顔になったのも印象的だった。
昨年の九州場所。10年間日本人力士から幕内優勝がなかったことを聞くと、自然と言葉に熱がこもった。「三役が大関を、大関が横綱を目指すなら、もっともっと稽古をやらないと。『もっと』じゃないよ。『もっともっと』だ。私が現役のころ(横綱になる前)は、横綱がやってる稽古場に行って、やったよ。自分からお願いして行ったよ。胸を借りないとだめだよ。稽古をやれば、いい結果に跳ね返ってくるんだよ。白鵬は、稽古量が減ってきているかもしれないが、他の力士はもっとしてないじゃないか。チャレンジしないと。差は縮まらないよ」。もう既に体は病魔に襲われていたが、協会の将来を心配する気持ちの強さは少しも衰えていなかった。
名古屋場所でも、体調が悪いと聞いていたが「まだ大丈夫だろう」と思っていた。ほんの少し前まで、あれだけ元気だったのに。子供のころは夢と感動をもらい、大人になってからは情熱的で豪快な生き様を教えてもらった。大好きだった横綱千代の富士、そして怖くもあり優しくもあった九重親方へ。心からありがとう。【木村有三】

