プレーバック日刊スポーツ! 過去の11月23日付紙面を振り返ります。1997年の3面(東京版)は元大関の小錦が千秋楽前に引退を表明と報じています。

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<大相撲秋場所>◇14日目◇1997年11月23日◇福岡国際センター

 元大関の小錦(33=高砂)が秋場所14日目の22日、引退を表明し、15年4カ月の土俵人生に別れを告げた。強烈な突っ張りで「黒船襲来」と騒がれた外国人初の大関の体は、275キロの体重故にヒザ痛などケガに泣かされ、満身創痍(そうい)だった。体力、気力とも限界で、千秋楽を前にして燃え尽きた。今後は年寄「佐ノ山」親方として後進の指導にあたる。

 涙はなかった。黄色の着物に黒いはかま姿の小錦。天井を見上げた。言葉を詰まらせた。静かに目を閉じた。しかし、最後まで声を震わせることはなかった。「相撲人生に全く悔いはない。ハワイから日本に来ていい思い出ができた。相撲をやって本当に良かった」。275キロの大きな体から闘志は消えていた。すっきりした安どの表情だった。

引退は昨年から決めていた。両ヒザ痛や痛風などのケガを気力だけで克服してきた。しかし、それも限界だった。「昨年12月に女房(寿美歌夫人)と話し合った。九州場所までもっても、今年で引退と決めた」。

 引退のピンチは何度もあった。今年春場所前には風邪をこじらせて入院し、初日から休場。秋場所では両足関節炎と左ふくらはぎ蜂窩織炎(ほうかしきえん)で途中から戦線離脱。しかしそのたびに執念で途中出場を果たし、引退を封じ込めてきた。それを支えたのが寿美歌夫人とハワイの両親の存在だった。

 今年の春場所前にダウンした時も、秋場所後にハワイで静養した際にも、隣には必ず寿美歌夫人の姿があった。小錦が大関に昇進した87年に出会い、2度目の優勝後の92年2月に結婚。それから6年。「強くなっても弱くなっても、黙ってついてきてくれた」と、頭をたれた。そして両親。9月に帰郷した時には、父ラウトアさんが、小錦の痛むふくらはぎを、水に浸したバナナの葉で何十分もマッサージしてくれた。

 周囲の声援にこたえるためにも、千秋楽まで相撲を取り切るつもりだった。だが、引退を決意した力士が土俵に上がれないのは相撲界の不文律。どうにもならないつらさを和らげてくれたのは、今度も夫人と家族だった。

 宿舎にかけつけた寿美歌夫人からは優しく「お疲れさま」と声をかけられた。息子の最後の土俵を見ようとハワイから来日した父ラウトアさんには「思い通りに頑張ってきたんだから」と慰められた。心の整理はできた。「2日間取れなかったが、ほかの力士に失礼だから。満足しています。ファンの方には、この場を借りて“15年間ありがとう”と言いたい」。悔しくないはずはない。しかし150人の報道陣を前に、最後まで力士の心を貫いた。「黒船」と呼ばれた外国人力士は、ほかのどんな日本人よりも相撲取りらしい態度で、土俵をおりた。

◆小錦八十吉(こにしき・やそきち)

1963年12月31日、米ハワイ州オアフ島出身。82年(昭57)名古屋場所が初土俵。83年九州場所で新十両、84年名古屋場所で新入幕。巨体をいかした突き押しで、入幕2場所目(84年秋場所)に準優勝を飾り、黒船襲来といわれた。87年名古屋場所で外国人力士初の大関に。89年(平元)九州場所で涙の初優勝を飾る。91年九州場所、92年春場所と計3度の優勝。両ヒザ痛などに苦しみ、93年九州場所で大関から陥落。94年2月に日本に帰化。184センチ、275キロ。愛称はサリー。寿美歌夫人(32)と二人家族。

※記録と表記は当時のもの