【1999年4月4日付・日刊スポーツ紙面から】

 TBSラジオの「小沢昭一の小沢昭一的こころ」(月〜金曜午後3時35分)が、放送27年目に入った。回数にして4000回以上、くる日もくる日も「お父さん、がんばってよ」と、ボヤキ続けているうちに、小沢も70歳になってしまった。1人劇団の公演「唐来参和」も、600回を超える。いずれも語り芸の行き着いた頂点といわれるが、小沢は「子供の時に吸収したもので一生食っています」というのだ。

 舌耕と いうなりわいの 蜆(しじみ)汁 変哲

 変哲は、小沢昭一の俳号で、本人も気にいっている自作の俳句である。舌耕(ぜっこう)とは、広辞苑によると「講義・講演・演説・講談など弁舌によって生計を立てること」。文字通り舌を駆使して「小沢昭一的こころ」を27年も続けてきた小沢らしい。

 軽快な三味線のテーマ音楽で始まる番組は「スケベな方、他局へダイヤルを」と言いながらも、いつの間にかフーゾクの話に分け入ってクスリとさせられる。その時々の世相、風俗、出来事を終始、好奇心おう盛な男の立場から論評してきた。愚痴あり、怒りあり、共感あり。それだけに「お父さんへの応援歌」でもあったのだが、近ごろは少し、風向きがおかしくなった。

 「お父さんはね、いくら応援してもしがいのない状況なんですよ。当初は、どうもこの番組を聞けば『私の知らないうちの父ちゃんの動きを察知できるのでは』と、お母さんがたが興味を示し始めた。そのうち女性の時代への移行が重なって、むしろお母さんに肩入れするようになっちゃった。いずれにしても、お客さん本位のもんですから」

 「芝居やってても(客は)ほとんど女性ですよ。しかも、昔と違って反応がシャープになっています。つまり、お母さんがたの方が情報量が多いんですよ、今や。テレビ漬けですから。お父さんは仕事に一生懸命で、文化関係まで吸収するアンテナが立ってないのか、性能が悪いのか。ギャグひとつ言っても、何のことか分からない。それにつけてもかわいそうだなと。文化の担い手が女性になっちゃった。芥川賞や直木賞の書き手もそう。そろそろ女性の総理が出てきてもいいのかなと」

 小沢は、夫人の英子さんと俳優養成所時代に知り合った。仕事を断念させ、亭主関白を宣言した。翌日のみそ汁の具まで指定するほどだったが、その小沢さえ「変わりました」という。

 「もう今は、ひばりの『川の流れのように』じゃないけど、すべてあなた任せで、何にも言わなくなりました。そうです。かないません」

 「まあ、若いころから1年の3分の2から4分の3は外を回ってました。だから、わが家が珍しい、珍しいってことは女房が珍しい。今は女房と語らっているのが一番楽しい時間になりました。ところが、むこうが迷惑だって。若いうちに、それをなぜ言ってくれなかったのかと。いろいろ仕事があって、とてもあんたなんか構っていられないってことですよ」

 「だから……」と1拍置いてから「人生って面白いもんですね。いろんなことが変わってくる。夫婦間も、待てば海路の日和ありで、なかなかいいものです」。

 1人だけの劇団「しゃぼん玉座」を旗揚げして17年になる。「国語事件殺人辞典」「我輩は漱石である」「芭蕉通夜舟」と、井上ひさし作品ばかり上演しており、84年からは「唐来参和(とうらいさんな)」にはまって600ステージを突破した。「俳優は、なかなか自分とピッタリくる芝居と巡り合えないもんです。その点、これは相性がいい。手放すまいぞと。やればやるほど面白く、やってもやっても飽きない。幸い九州から北海道まで、いろんなところから声を掛けてくださるものですから、15年も1つの芝居を持って旅回りをしています」

 唐来参和は、江戸時代の戯作者。吉良家の用人、蘭学修業、浮世絵の職人などを転々としたへそ曲がりで女房を吉原に金で売ることまでする。その女房が参和の行状を語るという構成になっているため、小沢は女装で登場する。演技もさることながら、ラジオに劣らずその話芸に客席は酔う。

 話芸といえば、小沢は話術や演技力というのは天性のものだというのが持論。「競馬が好きで馬券も買いますが、サラブレッドはDNAそのものでしょう。人間も馬と同じじゃないですか。自分自身の才能は、ほんの少しのプラスアルファで、ほとんどが親や先祖にちょうだいしたもの。それと、少年の時の環境。私などは、10代で吸収したもので一生営業しているという実感を持っています」

 いま話題の教育問題に結びつくようだ。「ほとんどあそこ(少年時代)で決まっちゃうんじゃありませんか。千代大海の強さは、あの不良があって強いんで。昔、劇団やってて研究生集めたり、俳優教育みたいなことにも携わりましたが、駄目なものは駄目ですね。10人中10人といってもいいほど駄目でした。いいものは、初めからいいですわ。この世界、仕事というのはそういうものです。だから、自分で(生かす道を)どうみつけるか、と同時に、どうあきらめるかということが大事です」

 父の経営する東京・蒲田の写真館で育った。松竹蒲田撮影所があり、女優の入浴をのぞき見し大人たちに実況説明して小遣いをもらったこともある。「家にあった山のようなレコードを片っ端から聴いて頭にインプットされた。芸能的な環境に恵まれた」という。

 小学校2、3年のころ、疫痢にかかった。

 「ビールビンのように太い食塩注射をされるんです。いやがったら、オヤジが、お前の好きな鯱(しゃち)ノ里(元前頭)を呼んでやる、といいました。弟子2人を連れて本当に来ましたよ。出前のすしを3回も追加するほど食べられました。ばく大な祝儀を出したと思いますよ。2、3日して、オヤジがオフクロに、今月どうして乗り切ろうかと、ひそひそ話してましたもの。子供心に、約束を守るということがどんなことか、身にしみて教えられました。口で守りなさいというだけでは駄目ですね。親なりが実例で示す。しかも、当人にとってメリットがないと、心に深く突き刺さらないもんです」

 インタビューの約束の時間より15分早く着くと、この人はもう喫茶室でカフェオレを飲んで待っていた。

 日活映画の全盛時代、2本立ての両方に出演し、予告編にまで顔を出していたことがある。ラジオのレギュラーを3本持ち、スタジオで寝泊まりしていたこともある。一方で、放浪芸やストリップに入れあげたり、放送大学で客員教授として「芸能と社会」を5年間講義した。多芸であり多才だが、小沢は「基本的に私は、来るボールを打ち返してるだけ。こっちから、あれをやりたい、これをやりたいと言ったことはない」という。「世の流れるままに、受け身の姿勢。何の仕事でもそう。怠け者で遊び人だからでしょう。まず逃げる。逃げるのがとっても好きです。捕まっちゃったら、しようがねえや。一生そうだったような気がします」

 しかし、仕事でも遊びでも、いったん引き受けたらなおざりにはしない。だから、ラジオにしろ芝居にしろ、持続する。俳句同好会の「やなぎ句会」は、月1の例会が30年も続いている。裏に、江戸っ子のシャイ、やぼを嫌うスタイルがあるのかもしれない。

 「マイナーなものに肩入れするのは、1つには戦争に負けて価値観の大変動を体験してますからねえ。一般にみんなが言っていたことは大体疑わしいと、体の中に強く刺激として入った。以来、多数意見にはマユツバをたっぷりつけてみる。裏路地とかマイナーなものに、本当は真実があるんではなかろうかというのは、そこがスタート地点です」

 今月の6日に古希(70歳)を迎える。「久しぶりに篠田組(篠田正浩監督)の『梟(ふくろう)の城』をやってきました。秋には公開されますが、カチンコが鳴ると青春がよみがえりますな。これからも逃げながら、引っ掛かった仕事だけでもやらしていただこうかなと。それにしても、仲間がどんどんいなくなるんですよ。こういう寂しさは、耐えがたいですね。フランキー堺、渥美清、戦友だった仲代達矢夫人の宮崎恭子、日活で出演本数を競った西村晃さん、芦田伸介さんに三木のり平さん。でね、毎年お参りする浅草の観音さまに行った時、一句浮かびました」

 浅草や あと幾たびの 除夜詣(もうで) 変哲