日本最高齢の映画監督、99歳の新藤兼人監督が、広島が66回目の「原爆の日」を迎えた6日、東京・テアトル新宿で行われた新作映画「一枚のハガキ」の初日舞台あいさつに車いすで出席し、監督引退をあらためて宣言した。広島出身の同監督は「みなさんとお別れです。みなさんと一緒に力を合わせて映画を作ったと思い出してください。それを望みに死にたいと思います」と、今作が最後の作品になることを明言し、反戦への強い思いも訴えた。

 声は震えながらも、しっかりと語っていた新藤監督が、突然涙声になった。

 新藤監督

 とうとう…、何でも終わりがあるように私も終わりがまいりました。みなさんとお別れです。しかし新藤は、こんな映画を作ったんだというふうに時々思い出してください。私は死んでしまいますけど、これだけが望みなんです。何という映画を作ったか、みなさんと一緒に力を合わせて作ったというふうに思い出してください。そうすれば私は死んでも、死なない。いつまでも生きて、私が映画を作ったばかりに思い出していただける。それを望みに死にたいと思います。

 大竹しのぶ(54)から、年と同じ99本のバラの花束をプレゼントされ、キスされた。豊川悦司(49)柄本明(62)倍賞美津子(64)津川雅彦(71)らも、口々に次回作の撮影と出演を願い出たが、監督の引退への思いは変わらなかった。津川は舞台上で感極まり、泣きだして顔をハンカチで何度もぬぐった。

 そんな感傷的な壇上でも、監督は反戦への思いを訴えることは忘れなかった。「戦争反対。なぜ、戦争みたいなバカバカしいことをやるんだというのがテーマ」と言い切った。「一枚のハガキ」は自らの戦争体験をベースに脚本も書いた。32歳の時に召集され、掃除部隊に入れられた体験談を口にしようとしたが、孫の風さんに「みんな見ていただいたから、くどい説明はしないで」と止められ、苦笑いを浮かべて話すのをやめた。

 「一枚のハガキ」が昨年の東京国際映画祭で審査員特別賞を受賞した際には、掃除部隊100人のうち94人が戦死したこと、生き残った6人の1人として94人の魂を背負って生きてきたこと、そんな人生のテーマを題材に撮影したと明かしていた。そんな思いが込められた作品や、52年の「原爆の子」などが、4月22日から5月5日までニューヨークで行われた自身の回顧展で米国初公開された。監督は引退してもシナリオライターとして活動を続けるが、日米両国の国民に向けた“遺言”はしっかりと伝えた。【村上幸将】

 ◆新藤兼人(しんどう・かねと)本名・兼登。1912年(明45)4月22日、広島県生まれ。34年に京都・新興キネマ現像部に入り、美術部に異動後、シナリオを書き始め溝口健二監督に師事。44年に松竹大船撮影所脚本部に移籍。同年4月に軍に召集され、終戦は宝塚海軍航空隊で迎えた。50年に松竹を退社して近代映画協会を設立。翌51年に「愛妻物語」で監督デビュー。60年の「裸の島」がモスクワ国際映画祭グランプリ、95年の「午後の遺言状」が日本アカデミー賞最優秀作品賞など受賞。02年に文化勲章受章。78年に女優乙羽信子と再婚し、94年に死別。

 ◆「一枚のハガキ」

 終戦間際に召集された中年兵100人の任地を決めるくじ引きが行われた夜、松山啓太(豊川)は、フィリピン赴任が決まった森川定造(六平直政)からハガキを渡された。定造の妻友子(大竹)から届いたものだった。死を覚悟した定造に「もし生き残ったら妻を訪ね、ハガキを読んだと伝えてほしい」と頼まれた。終戦後、生き残った啓太が帰郷すると、戦死のうわさが流れたために、自分の妻は実父と恋仲になっていた。啓太は生きる気力をなくし、ひとり残された友子を訪ねる。