今大会日本勢初メダルとなる銅メダルを獲得した近藤亜美(21=三井住友海上)は「やってきたことが形になってきているが、まだ銅メダル。まだ足りない」と正直な思いを口にした。

 ただ、1年前の挫折、恩師の叱咤(しった)がなければ、銅メダルすらなかったかもしれない。連覇を目指した15年8月の世界選手権での敗北から近藤がたどった道程とは…。

 

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 電車の車両が1台、また1台と駅を発車していった。15年9月、名古屋鉄道犬山線の岩倉駅、オレンジ色のベンチに座りながら、近藤は大粒の涙を流していた。乗るはずだった車両が去っていっても、席を立てない。押し寄せる悔恨、自分の甘さ、弱さを認めるしかなかった。そして、この数十分の涙こそが、リオへの活力につながっていた。

 その1カ月前、連覇を狙った世界選手権は散々な出来だった。払い腰など通り一辺倒の技は研究され尽くされ、打開する技術もなく、攻撃ポイントを1つも奪えずに準々決勝で格下の韓国選手に敗退。銅メダルこそ確保したが、失意の帰国となった。彗星(すいせい)のごとく高校3年生で48キロ級戦線に登場し、14年に世界女王にまで駆け上がった勢いは見る影もなかった。

 愛知・大成高で近藤を指導した大石公平監督は、近藤の性格をこう見る。「すぐに鼻が高くなる。調子に乗りやすいので、折って、折ってやらないと成長がない」。幼少期から負けず嫌いで勝ち気。格闘技向きの強気な性格は多くのタイトルに導いてきたが、自信過剰になって甘さが出るのが玉にきず。鼻の折り時を間違えないことが、指導の肝だった。

 世界女王になった愛弟子の姿に危険な気配を感じたのは15年4月だった。一緒に焼き肉を囲むと、食べる、食べる。「締めにチゲを」と大成高の同級生と楽しげな様子は、明らかに油断があった。会計は8万円。「減量もあるのに。その時に乱れ始めているなと感じたんです。謙虚さがなく、調子良いことばかりな感じ」。ただ、楽しそうな姿にその場は口をつぐんだ。そして案の定、世界選手権でそのツケは回ってきた。

 9月、失意の近藤は東京から日帰りで大成高を訪れた。初心を求めた。ただ、後輩たちの稽古に参加しても、きつい練習を避けた。それを見た大石監督は動いた。一緒に帰路につくと切り出した。「足元を見ないからこういうことになる。だから負けたんだ」。食事のこと、生活態度のことなどを指摘し、通学バスを降り、乗り継ぎ電車のホームでも話は終わらない。泣きながら、近藤は図星の指摘に改心を誓った。

 変えたのは「自分がそれまでやりたくない順の上位3つ」。1番はウエートトレーニング。「腕が太くなって、服が着られなくなるのは…」と逃げていた。だから外国勢の組み力に勝てなかった。2番は乱取り。勝手に本数を抜いてサボっていた。最後は減量。「本当に雑。自己流。そんなことしなくても落ちるよと。1週間くらいでやっていた」といういい加減さ改めた。質量計を買い、毎食カロリーを測った。

 TシャツのサイズがSからLに上がるにつれて、どん底からもはい上がっていった。14年世界女王に駆け上った軸の払い腰は、研究されて懸かりにくくなっていたが、筋力がつき、乱取りで他の技の威力がアップ。「全部の技が7割だったのを8割にして、完成度を上げようとしてきた。払い腰しかないと自分でも感じていた。今は研究されても関係ないなと思ってやってます」。相手が警戒する技が増えたことで、得意技は再びキレ味を取り戻した。思い切りが信条の強気の柔道で、恐れずに大技を仕掛けられる輝きがよみがえった。

 涙を流した昨夏の母校訪問では、1つの決意も書き残していた。「打倒自分!!

 オリンピック制覇」。先行きが見えない不安の最中でも、「出場」ではなかった。勝ち気、強気、その本性は消えていなかった。大石監督も「それはさすが」と振り返る。自らを雑草と呼ぶ忍耐力。上がって落ちて、上がって落ちて。踏まれても踏まれてもしぶとく生きる。だからこそ、恩師は叱咤をし、教え子は再び幹を天へと伸ばすことができた。

 

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 五輪制覇はできなかった。銅メダルが決まった瞬間、近藤の目からは涙があふれた。ただ、あの日駅のホームで流した涙とは少し意味合いは異なる。金メダルまでの差を聞かれ「まだまだ及ばない」と自分を認め、東京五輪に向けて「4年あるので頑張りたい」と宣言した。もう足元は見失わない。