手倉森ジャパンの国際試合38戦を全メディアで唯一、フルマークした。2年8カ月、見てきたのは手倉森誠監督が我慢する姿。14年の初陣ではユニホームの日の丸で足をふく選手がいるなど国を背負う以前の問題だったが、根気強く教育。オーバーエージ枠の興梠との交渉も、日本協会が失敗した後に私用の携帯電話でアポを取り、食事に誘って口説き落とした。

 この監督に協会は甘えすぎた。活動日数が少なくても、五輪前哨戦のトゥーロン国際(5月)にフルメンバーを呼べなくても文句を言われない。最たる例が、開幕2日前のヤングボーイズ久保の招集断念だ。交渉にかかわった全員から日本協会は不信感を抱かれ「興梠&久保の2トップ」という編成の最大の幹を折られた。監督は戦術の再考を余儀なくされた結果、初戦ナイジェリア戦を興梠1トップの4-3-3システムで迎え、引きすぎて5失点。これが尾を引いて1次リーグで夢が破れた。【リオ五輪サッカー担当・木下淳】