日本プロサッカー選手会と日本サッカー協会、Jリーグが行った、東京電力福島第1原発(大熊町)とJヴィレッジ(楢葉町、広野町)の視察に同行取材しました。元日本代表DF岩政大樹(35)ら選手5人が訪問、福島第1原発の構内に立ち入りました。福島県内での復興支援活動は数多くありましたが、原発構内に入るのは、サッカー界はもちろん、全プロスポーツ選手で初めてのことでした。


 いわき駅からバスで、約40キロ先の福島第1原発へ。案内してくれたのは東京電力ホールディングスの青木知里広報です。元なでしこリーガーで、Jヴィレッジを本拠としていた東京電力マリーゼのDFでした。「ホーム」だった福島の復興に力を尽くすため、東電を退社せず、情報発信に努めてきた方です。


 出発から約1時間、バスは第1原発の新事務本館に到着しました。昨年10月に完成したばかりの廃炉拠点で、運転免許証などによる身分確認、金属探知機など持ち物検査、おりのような入場ゲートで暗証番号を打ち込む、といった複数チェックを経て入構しました。携帯電話の持ち込みは禁止でしたが、作業員や海外からの見学者に対してでしょうか。「ポケモンGO禁止」の張り紙もありました。ゲート通過後は一室に集められ、手袋、靴カバー、線量計を借りて装備。構内専用バスに乗り換えて、岩政ら選手と同乗で、車内から「原発の今」を見ました。


 乗降所のすぐ近くにあったのが、15年5月に完成した大型休憩所。現在、約6000人いる作業員が温かい給食を食べられるようになり、16年3月からはコンビニも入店しました。商品の売り上げ1位はシュークリーム。日本で最も過酷な作業を終えた後、甘いものを食べたくなる人が多いようです。


 続いて、約1000本の汚染水タンク群、放射能を浴びて使えなくなった、ナンバープレートのない車800台、除染のため1000本から300本まで伐採された桜並木-。それらの間を通る中、ほとんど地面が見えませんでした。厚さ20センチのモルタルで地表を覆って空間放射線量を低減、雨水が地下に染み込むのを防ぐ「フェーシング」という舗装がされていたためです。見渡す限りグレーの世界が広がっていましたが、この舗装によって、敷地内の9割で防護服や全面マスクを着用する必要がなくなりました。実際、一般的な工事現場で見るような作業服に、簡単なマスクだけ、という人と何度もすれ違いました。「もっと散乱しているイメージでしたが、思った以上に整備されていた」。JFAアカデミー福島出身の湘南MF安東の感想に、ほとんどの選手は同感だったようです。


 原子炉建屋にも近づきました。核物質防護(テロ対策)の観点から撮影を制限されながら、最初に見えてきたのが1号機です。東日本大震災の地震発生直後に起きた水素爆発で、骨組みだけになった姿は写真や映像で見た通りでした。バスが約100メートルの距離まで近づくと、放射線量が一気に上昇。48・2マイクロシーベルトを計測しました。東京の平均値0・06マイクロシーベルトとは比べものにならない高さでしたが、健康診断の胸部エックス線検査で浴びる60マイクロシーベルトより低いと説明されると、線量が落ち着いた印象は受けました。既に核燃料の取り出し作業が終わっている4号機では、30~40メートルの距離まで近づいても、7・8マイクロシーベルトという数値まで下がっていました。


 一方、最も線量が高いという2号機と、鉄骨むき出しで爆発後の姿がそのまま残る3号機の間の道を通過した時は、選手の表情もこわばりました。「170(マイクロシーベルト)」「262!」「372!!」。車内で線量計を持った職員が声を張り上げ、最終的には「383」もの数値を計測。「1年半前(800マイクロシーベルト)と比べて半減した」とのことでしたが「2号機はまだ、人が1日(内部に)いたら死ぬ」という説明もあり、清水FW金子や福島MF渡辺は絶句。30~40年かかるといわれる廃炉へ、進んでいる部分、まだまだ手がつけられない部分がある現実を突きつけられていました。


 この視察は、アスリートが自ら原発構内に入ることで風評を吹き飛ばそう、という願いを込めて実現しました。廃炉・汚染水対策の最高責任者を務める東電の増田尚宏常務は「我々が奪ってしまった、失った5年10カ月は取り戻せません。しかし、ありのままを説明し、実態をご覧いただきたかった。良いことも悪いことも、見て感じたままを発信してほしい」。今も現地で働くJヴィレッジの元総料理長、日本代表の西芳照シェフも「正しい情報を伝えてください」と切実に訴えていました。


 その中で岩政は「あの日以来、止まっていると思っていた時間は動いていた。6000人の作業員の力で次に向かっていた。対する僕ら選手はまずプレーすることが大事。はき違えないようにしたい」と復興支援への思いを新たにしたようです。岡山GK似鳥も翌日、ツイッターに「第1原発も見学しました。報道が少なくなった今、ニュース載る時は良くない情報が多いですが確実に少しづつ復興に近づいている事を感じました。毎日何千人もの方々が過酷な環境の中戦っています。自分達に何が出来るか深く考えられる時間でした」(原文のまま一部引用)とつづっていました。


 東日本大震災が発生した11年、自分は東北総局に赴任中でした。原発事故の影響で転校生が相次ぎ、部員不足に陥った双葉翔陽(大熊町)富岡(富岡町)相馬農(南相馬市)の3校による連合チーム「相双連合」の苦闘など、高校野球を中心に福島県内で取材を重ねました。当時は全く原発に近づけませんでしたが、わずか35分間とはいえ、取材で構内に入ることができました。これだけで、個人的には復興が進んでいることを実感できました。


 福島第1原発から20キロ南にあるJヴィレッジも、鹿島MF柴崎の青森山田高時代など、東北大会の取材で訪れました。震災1カ月前の11年2月に開催された大会も取材。あの美しかった芝に砂利とコンクリートが敷き詰められ、復興車両の駐車場になったと聞いた時は信じられない思いでしたが、今回、コンクリートをはがして回るショベルカーやブルドーザーを見て、少し安心しました。Jヴィレッジ内スタジアムの時計は午後2時46分で止まっていましたが、確実に前進していることが分かりました。


 Jヴィレッジは、20年東京五輪の男女サッカー日本代表の直前合宿地になることが決まっています。復興のシンボルとして、今から1年半後の18年7月に一部再開し、19年4月に全面再開を予定。日本初のナショナルトレーニングセンターの復活の過程を、これからも節目ごとに伝えていければと思います。【木下淳】


 ◆木下淳(きのした・じゅん)1980年(昭55)9月7日、長野県飯田市生まれ。早大4年時にアメフットの甲子園ボウル出場。04年入社。文化社会部から08年に東北総局。東日本大震災が起きた11年は高校野球担当で、岩手、宮城、福島の沿岸部チームや花巻東の大谷翔平、甲子園3季連続準Vの光星学院などを取材した。12年に帰任。整理部を経て13年から現在のスポーツ部でサッカー担当。