山下り伝説の裏に、母の涙があった。91年世界陸上マラソン金メダリストの谷口浩美さん(50=トスプランニング)は、日体大2年から3年連続で6区区間賞を獲得。3、4年では区間記録を立て続けに更新し「山下りのスペシャリスト」と呼ばれた。その快走の原動力になったのが、高校時代のブレーキで母を泣かせた苦い経験だった。

 教員になりたい。その一心で日体大の門をたたいた。立川駅ビル最上階の喫茶店。谷口氏は遠い箱根の山並みに目をやりながら、当時を振り返りだした。

 谷口

 僕はあくまで教員が夢だった。箱根駅伝も当時は中継はなかったので、よく知らなかった。だからどうしても箱根を走りたいという気持ちはなかった。大学卒業後に旭化成に入ったのも、教員になるため。卒業直後に宮崎県に教員採用の枠がなくて、高校時代の恩師が「2年預かってくれ」と頼んでくれた。

 入学後に左ひざを負傷したこともあり、1年時は箱根に縁がないまま終わった。だが2年に入り、箱根の山が谷口を呼び寄せた。

 谷口

 当時5月くらいに、試走会があった。午前2時くらいに起きて、箱根にバスで移動して走る。迷子になるなよと言われて、真っ暗な中を走る(笑い)。まず上りを走ったけど、全くダメ。1時間30分以上かかった。逆に下りは、その年の区間賞近くで走れた。

 その秘訣(ひけつ)は何だったのか。

 谷口

 ピッチ走法でしょう。1分間で200回転すると言われてました。当時は日体大の先輩が区間記録を持っていた。その時のラップ表と、自分の試走のラップと比べて、ここは頑張って、ここは抜いてというストーリーをつくった。当日は伴走車に「1キロ21本のつもりで走る。1キロごとに予定のタイムからのプラスマイナスを言ってくれ」と伝えた。

 その「1キロ」を区切るため、大所帯が動いた。

 谷口

 文字通り、箱根の山をはかるんです(笑い)。部員100人以上で夜の箱根に行って、巻き尺を持って距離を全部はかる。当日も1キロごとに部員が立って、前と何秒差などと教えていたし。今はテレビもあって、携帯もある。でも昔はそうやって、人海戦術でやっていた。

 特に重要なポイントとして、残り3キロを挙げる。

 谷口

 緩やかに下っているけど、それまでずっと急な下りなので、足が止まる。大学3年で58分4秒の区間記録を出して、翌年は57分47秒で走っているんですけど、その17秒も残り3キロで縮めた。伴走車から「去年より10秒遅いぞ」と声が飛んだので、そこから上げたら、記録更新できた。今の選手もそこを頑張るか頑張らないかで、タイムが30秒は違うと思う。

 綿密な戦略で1年ごとに着実に記録を伸ばし、4年時には総合優勝につなげた。そんな「失敗しない走り」の裏には、小林高1年当時の苦い思い出がある。

 谷口

 高校駅伝の3区で大失敗した。寒さと重圧に加えて、あがっていた。上の空でたすきを受け、先頭から100メートル差の2位から、最後は400メートル差、最下位と同タイムまで落ちた。この差が響いて最後は準優勝だった。その後の慰労会の時に監督が「谷口のせいで負けた」とスピーチした。来ていた母親は、目の前で泣きだした。ああ、悪いことをしたなと。それが駅伝の原点。それがなければ頑張れなかったかも。大切な人を泣かすというのは…みじめですよ。

 それから目の前の目標に向かって、全力を尽くすようになった。つらくても、苦しくても、目の前の1キロを-。そんな着実な歩みが箱根を攻略し、いつしか世界の舞台に導いた。

 谷口

 箱根の山で1キロごとというのを、きっちりやっていたから、マラソンに移行できたと思う。

 バルセロナ五輪で給水時に転倒した後も「次の1キロ」に変わりはなかった。

 谷口

 あの時も、あきらめるというより、どうやったら勝てるかということしか考えなかった。レースは終わってないから。レース前も、レースが始まっても、もっといい状態をつくることはできる。走りながらでも、次の1キロで自分を高めることはできるんです。【取材・構成=塩畑大輔】