その日、私の狙いは外れた。

 昨年12月3日、駒沢体育館で行われたフェンシング全日本選手権。「目当て」の選手、男子エペでリオデジャネイロ五輪6位の見延和靖(29=ネクサス)は、準決勝で大学生に14-15と僅差で敗れ、2連覇を逃した。そもそも全身への攻撃が有効であるエペは、他の2種目フルーレ、サーブルと比べ、番狂わせが起こりやすいと言っていい。相手の慶大4年武田仁は実力者ではあったが、卒業後に一線を退く選手。ここは意地でも見延に勝ってほしかった。

 試合後、見延は「やっちまったなぁ」と苦笑いを浮かべた。

 「いいところを見せたかったのですが…。このままじゃ先輩には遠く及ばないです」。

 “先輩”こと男子フルーレ太田雄貴の引退会見が翌日に控えていた。リオ五輪の選手村で2人は同部屋だった。日本フェンシング界をけん引してきた“先輩”太田への餞として、見延が圧倒的な勝利を飾る…。私は、そんなストーリーを頭に思い描いていたが、結局、その日は優勝者武田をたたえる短い記事を書いた。

●フルーレよりエペ愛を貫く

 見延を初めて取材したのは15年の11月。日本人で初めてエペW杯を制し、帰国した彼を成田空港で迎えた。同大会の準決勝で世界ランク1位のグリュミエ(フランス)を初めて破ったことも快挙だった。「とうとう、やってやりました」。うれしそうに話す姿は今でも忘れられない。

 日本ではフェンシングといえば、太田がしているフルーレのイメージが強いが、本場の欧州では競技人口、人気ともにエペが上まわる。福井・武生商高でフェンシングを始めた見延はしばらくフルーレ、エペを両立していたが、法大3年時にエペに専念した。かつてエペを選んだ理由を聞くと、こう話していた。「エペは、単純に面白い。有効面が限られているのが、僕の中ではちょっと納得できない部分があって。(突く部分の)1、2センチで、何が違うの、と思ってしまいます。一緒じゃん、と」。頭でも、つま先でも、体のどこを突いても得点になる。そのシンプルさに魅了されたという。太田に、フルーレ転向を促されたこともあったが、断り、エペ愛を貫いてきた。

 心身ともに最高の状態で迎えたリオ五輪。だが、準々決勝で世界ランク1位のグリュミエと向かい合うと「まったくスキが無かった」。195センチの長いリーチを生かした積極的な攻めが出来ず、8-15で敗れた。エペでの入賞は日本人初の快挙だったが、「やっぱりメダルが欲しかったです」と今でも悔しそうに振り返る。

●空席目立つ観客席に危機感

 前述した全日本選手権は観客席に空席が目立ち、報道陣も数えるほどだった。マイナー競技であるフェンシングにとって、4年に1度の五輪は注目を集める機会でもある。北京、ロンドンでのメダル獲得時、テレビでは繰り返し試合の映像が流され、多くの日本人がフェンシングへの知識を深めた。太田や、他の団体メンバーは、時の人となった。もし、昨夏、女性誌で取り上げられるほど男前の見延がメダルを獲得していれば…。タラレバを言っても仕方ないが、現在のフェンシングをめぐる状況はだいぶ違っていただろうと思う。見延は危機感のあまり、注目を集めるなら「ボディビル大会に出てもいい。モデルでも何でもやります」と話したこともある。「後釜になれれば」と太田なき後のフェンシング界を、名実ともに支える覚悟がある。

 昨年12月末、見延はドバイで行われたW杯でリオ五輪金メダリストを破り、優勝。あらためて世界トップレベルの力を示した。彼の「とうとう、やってやりました」というせりふを、東京五輪の舞台でもう1度聞きたい。【高場泉穂】

 ◆高場泉穂(たかば・みずほ)1983年(昭58)6月8日、福島県二本松市生まれ。東京芸術大を卒業後、08年入社。整理部、東北総局を経て、15年11月から五輪競技を担当。