プレーバック日刊スポーツ! 過去の8月16日付紙面を振り返ります。2008年の1面(東京版)は北京五輪で柔道ニッポンの牙城を守った石井慧でした。

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<北京五輪:柔道>◇2008年8月15日◇男子100キロ超級

 柔道男子最重量の100キロ超級で、初出場の石井慧(21=国士舘大)が柔道ニッポンの牙城を守った。4連続1本勝ちで臨んだ決勝で、タングリエフ(ウズベキスタン)に優勢勝ち。「オール1本V」の快挙こそ逃したが「スポーツじゃない。勝負です。これが僕の柔道です」と会心の笑みを浮かべた。100キロ級から転向してわずか1年。勝負にこだわる若きエースが66キロ級内柴正人(旭化成)に続く2個目の金メダルで、不調を極めた柔道ニッポンの意地を見せつけた。

 右手を突き上げ声援に応えると、涙が止まらなくなった。日本男子柔道を救う金メダル。歓喜、感謝-。石井が胸にため込んだ感情を一気に爆発させた。「今は実感がわかない。これが五輪かな、と。初めての経験だけど終わってみれば、いつもの試合と同じだった」。21歳の五輪王者は堂々と胸を張った。

 「らしい」試合で栄冠を手にした。2回戦から4連続1本勝ちで迎えた決勝戦。タングリエフ相手に前へ前へと突き進んだ。相手のスタミナ切れを誘い、指導2つで優勢勝ち。「スポーツではない。勝負です。負けちゃいけない。これが自分の柔道」。勝負に、金メダルに徹した結果だった。

 柔道最終日、最終競技の自分を残し、日本男子のメダルは内柴の金1個のみ。そんな柔道ニッポンの危機にあって「これで勝てば自分が目立てる。この状況に立たされたことを幸福に思った」と言ってのける。前日14日に100キロ超級担当の正木コーチに「金メダルを取ってきます」と宣言した。それを現実にした。

 強心臓、ビッグマウス…。周囲の評価と裏腹に繊細な一面を持つ。6月20日、練習中に右足親指を開放脱臼。「五輪が近いのに…」と入院先の病院で涙した。リハビリと筋トレに明け暮れたが、柔道練習は2週間中止。畳での練習不足は否定できず、北京入りを前に柔道部仲間に「おれ、勝てるかな」と弱音を吐いたこともあった。「不安がないとダメだと思う。不安というより恐怖心があった」と胸の内を明かした。

 16歳の冬、大阪から単身上京した。国士舘高に編入直後は、初の寮生活に「同部屋のやつがテレビをつけていて寝られない」とトイレで泣いた。それでも高校卒業まで1度も大阪の実家には帰らず、練習に没頭。ただただ、強さだけを追い求めて汗を流し続けた。

 100キロ級から100キロ超級に転向後、わずか1年。棟田、井上ら年上の猛者相手に代表争いを制したが「かけ逃げが多く、日本柔道らしくない」と批判も浴びた。この日もオール1本勝ちの優勝を捨て、最後は勝負にこだわったが「勝因はだれに何を言われようが、ヒールになろうが、自分を貫いたこと。それが自分の強さと思う」と断言。「日本柔道を背負っていたわけではない」とも話した。

 「日本柔道」ではなく「日本柔道の強さ」を世界に示した新世代の五輪王者。さらなる進化へ93年世界選手権王者で背負い投げの名人、全己盈(韓国)を見本に上げた。「この柔道で勝ち続けられるほど、甘くはない。全さんのような柔道をしたい。研究をして鍛錬したい」。まだ21歳。4年後はさらに強い姿で連覇を目指す。

※記録と表記は当時のもの