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日本社会=体育会体質/爲末大学

為末大学の責任編集長を務める為末教授
為末大学の責任編集長を務める為末教授

 大阪市立桜宮高バスケットボール部主将が体罰を受けた後に自殺した事件に始まり、女子柔道選手への暴力やパワーハラスメントも発覚し、日本のスポーツ界が揺れている。自ら取材、執筆を手がける責任編集の為末大(34)が「スポーツと教育」をテーマに、その問題点に切り込んだ。

<1>人間に限界はない

 勝負どころはもっと頑張れという根性論がスポーツにはいまだに根強くある。戦略というのはすべてに限界があり、それをどう分配すれば最も効果が高まるかというのを考えるところから生まれる。時間にも限界があり、モチベーションにも限界がある。

 今回、女子柔道が五輪前のすべての試合に選手を出していたというのも、この「モチベーションに限界はない」とする考えに基づくのだと思う。五輪が第1目標なら、そのために勝たなくてもいい試合を作ったり、欠場するべき試合もあるはずだ。何でも気持ちで解決しようとするチームで育った選手は「頑張ります、気合を入れます」という精神論に陥る。戦略的思考が抜けがちで、みんなが限界までやっているとは限らないレベルでは通用しても、より高いレベルでは効率が悪い練習から抜け出せず、通用しなくなっていく。限界まで頑張っているのが当たり前の世界では、効率を重視した者が勝ち残る。

<2>苦しくなければ成長はない

 体罰も含め、強制的な厳しい指導を肯定する人には、成長には必ず苦しみが伴うという考えを持つ人が多い。確かに苦しみを乗り越えて成長を実感する人は多いが、それはあくまで成長に苦しみが伴うことが多いだけで、苦しみ自体を目的にするとずれる。体罰を繰り返す学校の多くが、成長の副産物である苦しさが、目的にすり替わっている。

 例えば「プライオメトリック」という台から飛び降りて、着地後すぐ跳ね上がるという練習がある。これは体感的にまったくつらくない。でも陸上の練習の中では、かなり負荷が高い練習になる。苦しさと練習効果には関係がない。中には苦しくなければ強くなっても意味がないと考える人もいる。トレーニングはつらさではなく、練習効果をもとに作られるべきだ。

 むしろ練習効果としては、苦しいと考えながらより楽しいと考えながらの方が同じ2時間の練習でも練習効果が高い。苦しさより楽しさの効能を、もう少し重視すべきだと僕は思う。

<3>管理されなければ人間は怠ける

 人間は怠ける生き物で「管理されることによって努力する」という根強い考えが多い。確かに管理されれば人間をある程度頑張らせることができるけれど、それは個人のモチベーションを削ったり、自発的に考えることを選手から奪う。外から懲罰を与え、モチベーションを外部からの圧力によって引き出そうとすれば、短期間では成果が出るかもしれないが、将来的に選手は燃え尽きるか、伸び止まることが多い。

 管理して型にはめることではなく個々人の主体性を大切にし、特徴を生かすのは難しいけれど、それをやってこそのコーチングだろう。最終的に自分の特徴を生かし、考えられる選手の方が強いと僕は思う。

<4>みんな同じ目的でなければいけない

 スポーツの定義は本来とても大きな範囲に及ぶ。日本は学校教育とスポーツの結びつきが強く、スポーツは教育だと思っている人が多い。けれどスポーツ発祥の欧米では、スポーツは娯楽という考えの方が根強く、その一部に教育の側面もあるという考え方をしている。散歩がスポーツだというと驚く日本人は多いけれど、本来のスポーツの定義からすればむしろオリンピックを目指すようなチャンピオン型のスポーツの方が規模は小さい。「デポルターレ(deportare)」というスポーツの語源と言われる言葉の意味は「発散する、表現する」だ。

 僕の友人でスポーツは嫌いだけど、友達との散歩は好きと言っている人がいた。日本のスポーツはつらさや苦しさに耐え、誰かに勝ちに行くという文化を学生時代に教え込まれるから、ただ楽しむということはスポーツと思っていない人が多い。楽しむためにやるのも、成長のためにやるのも、勝つためにやるのも、暇つぶしのためにやるのも全部スポーツだと僕は思う。

<5>人には上下があり逆らってはならない

 古くからスポーツ界では、年齢が上のものや地位が上のものが絶対で、下はそれに何があっても従わなければならないという因習がある。体罰やパワハラがなぜ深刻化するかというと、力関係が絶対的に決まっているところで下のものが追い込まれるからだ。

 もし海外でパワハラのようなことが起きた場合、選手たちが自由に訴えを起こせる第三者機関が存在する。当然、代表を選ぶ権利を持っている協会の方が力が強いから、弱い立場の選手たちが逃げ込める場所が必要だからだ。

 実は日本にもスポーツ仲裁機構という独立した第三者機関があるのだけれど、全柔連は今このスポーツ仲裁機構に加盟していない。だから、まず各協会はこういう第三者機関に加盟し、選手たちが思いを訴える行為と場所を認めるべきだと思う。黙ってついてこいという時代は終わり、誰もが発言することができ、話し合いで決めていく時代が来るべきだ。

<6>思いさえあれば手段は問わない

 確かに体罰は悪いことかもしれないけれど、その背景にあった思いは本当に選手のためを思っていたはず―。体罰を罰することに抵抗感がある人の違和感は、ここにあるのではないだろうか。確かに体罰を振るった指導者は熱意ある人なのかもしれないが、指導者の本当の思いが分からないように、体罰を受けている生徒の本当の思いもまた分からない。体罰を受けても嫌ではなかったという人もいるかもしれないが、嫌だという人も当然いる。

 日本は動機が純粋であれば行為には寛容なところがあるけれど、動機が純粋であったかどうかを証明するのはとても難しく、だから行為で線引きするしかない。それをギスギスしていると感じる人もいるかもしれないが、人を尊重するというのはそういうことだと思う。

      ◇     ◇      

 1つ、僕には疑問がある。これだけ世の中から問題あると言われる体育会体質なのに、どうして体育会出身者は企業からいまだに人気が高いのか。なぜ、スポーツは人気があるのか。

 僕は体育会的体質は、実は日本社会的体質とも言えるのではないかと思っている。歯を食いしばり苦しみに耐え、指導者に必死でついていき、熱い思いで勝利を目指す。そういう姿を社会はスポーツ界に期待して、そしてスポーツ界もそれに応えていた。

 いわゆる体育会的性質とは、礼儀正しく、限界を作らず、忍耐強く、空気を乱さず、上には逆らわず、熱意を持って動く。日本のスポーツ界は、こういった資質を持つ人間を育てる仕組みとしてはすごくうまく機能していて、ある意味で日本社会に最も適した人材育成の役割をスポーツが担っていたのではないか。

 でも時代は変わりつつある。グローバル化により年齢や地位を恐れず、自分の考えを主張し、議論できるタイプの人間が必要とされるようになった。イノベーション(物事の新機軸)やクリエーティビティ(独創的なアイデア)が必要とされ、無理やり1つの型にはめ込もうとする教育に抵抗が強くなった。そして1人1人の権利が重要視されはじめた。そういう社会の流れにスポーツ界はついていけていない。

 体罰は禁ずるべきだが、もっと深いところに問題の本質はある。これからは人間を型にはめて管理しやすくする教育観から、個人の権利と個性を尊重し、生かす教育観にスポーツ界も意識を転換すべきだ。むしろスポーツの世界から日本社会をリードするような理念を打ち出してほしい。指導者も選手も本当は日本をスポーツで豊かにしたいという同じ思いを持っているはずだ。どうか今回の事件を、世界に胸を張れる新しい日本スポーツ文化を生み出すきっかけにしてほしいと、強く願っている。(為末大)

 ◆為末大(ためすえ・だい)1978年(昭53)5月3日、広島市生まれ。広島皆実高―法大。男子400メートル障害で世界選手権で2度(01、05年)銅メダル。五輪は00年シドニー、04年アテネ、08年北京と3大会連続出場。自己ベストの47秒89は現在も日本最高記録。昨年6月の日本選手権を最後に現役引退し、現在は社会イベントを主宰する傍ら、講演活動、執筆業、テレビのコメンテーターなどマルチな才能を発揮。爲末大学の公式サイトは、http://tamesue.jp/

 [2013年2月15日2時41分 紙面から]

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