さらば、日本のエース。フィギュアスケート男子で10年バンクーバー五輪銅メダリストの高橋大輔(28=関大大学院)が14日、故郷の岡山県内で会見し、現役引退を発表した。集大成で臨んだ2月のソチ五輪は6位。右膝故障の影響も大きく、今季は休養していた。次に進むための決断を強調し、今後はスケート以外の選択肢も含め考えていく。日本のフィギュア人気をけん引した名スケーターが、戦いの日々を終えた。

 珍しいメガネに口ひげ姿でも、飾らない普段の高橋がいた。質問に少し照れながら誠実に答えを探す。人生の大きな決断を話す席でも変わらなかった。

 高橋

 引退するという決断をしました。次の目標に向かって進みたい。

 決断は9月半ば。今季休養を宣言し、1年間かけて熟考するはずだったが、心には「モヤモヤ」が残っていたという。3月の世界選手権を故障で欠場。区切りと位置付けたソチ五輪も含め、不完全燃焼だった。同時に、4年後の平昌五輪までは「モチベーションを保つのは難しい」と感じていた。そのせめぎ合いが「モヤモヤ」だった。だから、「スッキリしたかった。気持ちを少しでも残すと、次に進みにくい」と道を決めた。

 10代で日本男子の最前線で戦い始め「エース」の称号を得たが、順風満帆ではなかった。故障と闘い続けた。08年10月には、右膝の前十字靱帯(じんたい)断裂、内側半月板損傷の大けが。選手生命が危ぶまれた。バンクーバー五輪開幕1年前でも歩くのがやっと。そこから復活し、銅メダルを手にした。この日、故障に悩む選手に、「大変さを良い経験、楽しむんだとやっていったら、その経験は自分のものになる」とメッセージを送った。

 生まれ育った岡山県で会見に臨んだ。倉敷市で8歳で競技を始めた時、自分の滑る楽しみより「両親が笑ってくれるのがうれしかった」という。いまも、ファン、コーチの喜びが最上の喜び。演技の見どころを聞かれると、必ず「それは皆さんに任せます」と答えた。自分のこだわりでなく、見ている人が主役。「自分を強引に通すのでなく、流れを受け入れてきた」。だからこそ、クラシックからヒップホップまで踊れる類いまれな表現者となれた。

 いま決まっているのは12月のアイスショーだけ。これまでと違い、今後は自分を通す、その目標を決める。「本当に戸惑っている」と苦笑いする。まずは「どこまでスケートを好きだったんだろう?」。そんな疑問から始める。期間は1、2年。その先にあるのはコーチか振付師か、別の道か。ただ、いま確かに思うことが1つある。「スケートに関わっていくのが自分としてはうれしいし、良い結果かな」。【阿部健吾】

 ◆高橋大輔(たかはし・だいすけ)1986年(昭61)3月16日、岡山県倉敷市で4人兄弟の末っ子として生まれる。8歳の時、家の近くのウェルサンピア倉敷(当時)でスケートを始める。岡山・倉敷翠松高-関大-関大大学院。165センチ、59キロ。