<大相撲初場所>◇千秋楽◇27日◇両国国技館

 元小結で東十両12枚目の高見盛(36=東関)が27日、現役引退を表明した。初場所で5勝10敗に終わり幕下陥落確実になり決断。千秋楽の取組後に、東関親方(34=元前頭潮丸)先代東関親方の渡辺大五郎氏(68=元関脇高見山)に意思を伝えた。急きょ設けられた引退会見では、先代から「早く嫁をもらって」と願望され爆笑の掛け合いが始まり、高見盛は「いろんな所に足を延ばして知り合いを増やす」と婚活を宣言した。今後は部屋付き親方の年寄「振分」として後進も指導する。

 角界の人気者が、丸14年の土俵生活に別れを告げた。都内のホテルで、急きょ開かれた引退会見。高見盛は、やや顔を硬直させて緊張した表情で席についた。小結が最高位の力士では、異例の100人近い報道陣が集まる中で「高見盛精彦は、力士を引退することになります」と言って深々と頭を下げた。「今、決めたばかりですので、うまく伝えられないけど、少しホッとしたのと、先行き不安なのと半々といった気持ちです」と心境を口にした。

 以前から十両に残留できなければ現役を退く考えを示していた。東十両12枚目で迎えた初場所は12日目に幕下陥落が濃厚になる9敗目を喫した。結局5勝10敗。古傷の右ひざに加え、初場所中は右肩も痛め、腰や首も疲弊し、思い通りに動けなかった。「体が結構ボロボロになった。これ以上、相撲取ってもさらに体を傷つけることになる。それを考えて決断しました」と、引退理由を打ち明けた。

 日大を経て幕下付け出しでデビューしたエリートも、稽古では弱かった。関取になっても、三段目の付け人にかわいがられ、すり足で何度も土俵の周りを歩かされた。心の弱さを吹き飛ばすために始めたのが、土俵で体をたたく気合注入のパフォーマンス。角界のロボコップと呼ばれ、人気が急上昇した。兄弟子だった横綱曙との日々の稽古で力をつけた。「200キロ以上あった曙さんの突き押しに何とか抵抗しようとして、得意の右四つに磨きを掛けた」と元付け人の松本権二氏(元幕下心勇)は言う。

 現役で取った相撲は、1125番。最後となったこの日の千秋楽は、元幕内の若荒雄を相手にすべての力をぶつけた。強烈なのど輪で押されても食い下がり、俊敏に動いて肩透かしを決めた。グッと両拳を握り締め、大歓声に応えた。それでも「悔いはないか?」と問われると「だから、引退したんです」と未練を断ち切るように話した。

 約30分の会見の後半は、高見盛らしく爆笑の連続だった。「相撲界をもっと盛り上げて、若い力士をガンガン増やしたい」と今後の夢を話した後、となりに座った先代東関親方(元関脇高見山)から「早く嫁さんをもらって!」と横やりが飛んできた。「それは、なるようにしかならないと思いますが…」と困ったような顔を浮かべた高見盛に、先代は「いい嫁がいれば…。(故郷の)青森(出身)はいいよ。都会はダメよ」と注文を出す。すると「そういうしばりをするとややこしくなるので…」と、さらに困惑した。

 先代が「グラマーな子がいいよ」とアドバイス?

 すると、観念したように「とにかく、いろんな所に足を延ばして出て行って、知り合いを増やして。そこからできれば…ということです」と、婚活にも力を入れることを宣言した。

 記録や圧倒的強さではなく、その必死さとまじめさが生む表情と行動が、多くの人に愛された。土俵人生の最後も、湿っぽい涙はない。しこ名の通り、会見場を盛り上げ、笑顔を見せて現役生活の幕を下ろした。【木村有三】

 ◆高見盛精彦(たかみさかり・せいけん)本名・加藤精彦。1976年(昭51)5月12日、青森県北津軽郡板柳町生まれ。小4から相撲を始める。板柳中3年で中学横綱。弘前実2年でインターハイ団体優勝。日大に進学後、4年時に全日本相撲選手権優勝でアマ横綱に。99年春場所幕下付け出しデビュー。00年名古屋場所新入幕。右ひざ負傷で幕下まで落ちるが、02年春場所再入幕。同秋場所新小結。十両優勝1回、殊勲賞1回、敢闘賞2回、技能賞2回。金星2個。通算563勝564敗(不戦敗含む)46休(83場所)。最高位は小結。得意は右四つ、寄り。独身。187センチ、142キロ。