<パドレス1-7ドジャース>◇2008年4月4日(日本時間5日)◇ペトコパーク

記者席からの肉眼では正直、詳細を把握できなかった。テレビモニターに目を移す。ドジャース正捕手のラッセル・マーティンが白い紙を尻ポケットから取り出し、黒田博樹と何やら言葉を交わしていた。

あれは広島からド軍に移籍した黒田の大リーグデビュー戦。1失点で迎えた7回裏だった。2死から安打を許すと、マーティンがマウンド上に歩み寄る。白い紙を確認した後、満を持して繰り出されたのは、たどたどしい日本語だった。

「オチ…ツイテ!」

女房役はゲーム前、日本人通訳に「日本語を1つ教えて」と頼み込み、意味と発音をマスター。勝負どころでリラックスを誘おうと、「カンペ」をポケットに忍ばせていたのだ。

パドレス対ドジャース 7回裏2死一塁、黒田(中央)に捕手マーティン(右)はカンペを取り出し日本語で「落ち着いて」と話す(08年4月4日)
パドレス対ドジャース 7回裏2死一塁、黒田(中央)に捕手マーティン(右)はカンペを取り出し日本語で「落ち着いて」と話す(08年4月4日)

マーティンの涙ぐましい努力も功を奏し、33歳ルーキーは7回を無事投げ抜いた。井口資仁も並んだ打線を相手に無四球3安打1失点でメジャー初白星。黒田は相棒の好リードとサプライズに「さすがにマウンドでは笑えなかったけど、ありがたかった」と感謝した。

初勝利を挙げ笑顔でテレビのインタビューに答える黒田(08年4月4日)
初勝利を挙げ笑顔でテレビのインタビューに答える黒田(08年4月4日)

今思えば、この1勝はとてつもなく大きかった。

ドジャースはあの年、東海岸のブルックリンから西海岸のロサンゼルスに移転して50周年を迎え、オフから勝負をかけていた。

ヤンキース退団直後の名将ジョー・トーリ監督を招請。05年本塁打王&打点王で10年連続ゴールドグラブ賞の外野手、後に楽天でも活躍したアンドリュー・ジョーンズも2年総額39億円超で補強。トドメに3年総額38億円超で獲得したのが日本人右腕だった。

黒田は当初、滑りやすい大リーグ球に苦戦。オープン戦中盤まで100%を出し切れずにいた。デビュー戦で実力を示せなければ、手厳しいLAメディアの標的となる可能性もゼロではなかった。そんなプレッシャーをたった1試合で乗り越えた点に重みがあった。

米国の硬いマウンドに合うスパイクを開幕直前まで探し続け、ボールにも懸命にアジャスト。パドレス戦は全77球のうち53球がストライクだった。完璧に近い内容で記念星をもぎ取り、「勝利をしっかりかみしめたい」としみじみ語っていた姿が印象深い。

実はメジャー2戦目以降、黒田はなかなか好投も報われず、8戦連続で白星から遠ざかっている。それでもメディアの論調が厳しくならずに済んだのは、初星のインパクトが長持ちしたおかげなのかもしれない。

結局、A・ジョーンズは絶不調で猛烈なバッシングを浴びたまま、1年限りで追われるようにド軍を去った。一方の黒田は米国初年度から31先発で9勝、防御率3点台、プレーオフでも2戦2勝。4年ぶりのナ・リーグ西地区制覇、リーグ優勝決定シリーズ進出に貢献し、立場を確立した。

12年からは名門ヤンキースでも主戦格となり、16年に古巣広島で現役引退するまでに積み重ねた日米通算勝利数は203。レジェンドとなった姿を目にする度、異国に降り立った直後の右腕を温かく支え続けたマーティンの、あの無邪気な笑顔を思い出す。【佐井陽介】(所属など当時、敬称略=この項おわり)