平成の野球を語る上で、最重要人物が松井秀喜(44)だ。巨人の4番、球界の将来を担う逸材と期待され1993年(平5)にプロデビュー。長嶋茂雄監督から熱血指導を受け、日本を代表するスラッガーに成長した。03年からメジャーの名門ヤンキースの主軸として活躍。09年ワールドシリーズではMVPに輝き、世界一に貢献した。時代をけん引した強打者は今、何を考え、どこへ向かうのか-。新時代を前にした思いを探る。

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現役の終盤、松井は何を考え、何に目を向けていたのだろうか。

2012年(平24)4月末。開幕後までずれ込んだものの、レイズとマイナー契約を結んだ時点で「引退」の2文字は浮かんではいなかった。

「せっかくシーズン途中に契約してもらったんだから、とにかく力になりたい。それだけでやってました。ただ、途中から結果が出なくなって、これは何かの…1つのメッセージかと…。キャンプに呼ばれてないということもひとつのメッセージ。準備不足だとか、言い訳を見つけても仕方がないこと。総合的に考えて、辞めるという決断に向かう、ちょっとした出来事が重なっていました」

7月25日にレイズから戦力外通告を受けてから、情報は入り乱れた。翌年以降、日本球界復帰、マイナーから再出発するなどの選択肢も残されていた。実際、ニューヨークでトレーニングを継続中と報じられてもいた。

「途中で戦力外になったり、シーズン前に契約が決まらなかったり。いろんな事実をピックアップすると、最終的には、そういう(身を引く)流れに傾いていきました。チャレンジするという手もあっただろうけど、もう1回、そこからやるところまで傾かなかった。たとえば、戦力外になった後、ちゃんと練習をやっていたかといえば、そうじゃない。せいぜいジムで体を動かした程度で、日本とアメリカで10年ずつやった区切りの良さとか、辞める方に傾くような、整理し始めている自分がいました」

チームのために貢献できていないことを感じた時点で、方向性は定まった。翌年、第1子の誕生予定もあり、私生活でも変化しやすいタイミングだった。

「自分の中で完全に整理できていました。ただ何か、道を探ろうかとは思ってましたけど」

現役引退と同時に、周囲からは古巣巨人をはじめ、将来の指導者として期待されるようになった。だが、真っ先に若手の育成を依頼してきたのは、ヤンキースだった。引退する3年前の09年、その後の松井がヤンキースの「レジェンド」としての立場を不動にしたのが、フィリーズとのワールドシリーズだった。(敬称略=つづく)【四竈衛】

12年7月、スタメンから外れたレイズ松井秀喜は、イニング間のイベントを浮かない表情で見つめる
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