平成は甚大な自然災害が続いた時代でもあった。東日本大震災から8年を迎えるにあたり「災害と野球」を取り上げる。

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「何もなかったら、野球選手として、あのまま終わっていたかもしれない。最近、そんな風に思います」

三陸海岸に面した岩手・普代村で生まれ育ち、東北唯一の球団である楽天に入った銀次(31)の人生は、東日本大震災と密接に絡み合う。高卒6年目だった11年まで1軍出場は通算24試合。翌年126試合と一気に中心選手への階段を駆け上がり、今季から野球人生初の主将を務めることになった。

「それまでは、もしかしたら頑張っていなかったのかもしれない。何も考えず、漠然と、やらされている練習をこなすというか。『これ以上うまくなることはないのかな』なんて思ってしまうこともありました」

うまくなる方法をひたすら考える。練習量を増やす。自分で決めていた限界を突破する鍵は単純で明快。純粋な思いに突き動かされた。

「沿岸で生まれて、東北の球団に入って、震災があって。オレが活躍しなきゃいけないと思った。『あいつ頑張ってるな』『すごい活躍してるな』って思われたら、うれしいじゃないですか。みんなが幸せになれるじゃないですか。人を喜ばせたいっていうのは(震災から)変わらない」

8年前、普代村の住宅への浸水被害はゼロだった。1000人以上の死者、行方不明者を出した1896年(明29)の明治三陸大津波を受けて、1984年(昭59)に高さ約15・5メートル、長さ約200メートルの普代水門を建設していた。

「子どもの頃、友達みんなで話していたんです。『こんなに高い津波、来るわけないじゃん』って。でも、2011年にそれが来た。昔の人はすごいなって思った。やっぱり、怖さを伝えていかなきゃいけない」

震災後に結婚し、3人の子どもが生まれた。痛ましい記憶であったとしても、生まれ育った地で何が起きたのかをいずれ教えるのも、親の責務と感じている。

「人間は、やっぱり忘れていく生き物。忘れたらいいのか、忘れない方がいいのか、人それぞれです。自分は沿岸出身だからずっと(心に)あるだけで。みんながみんな、そうあるのが難しいことは分かってる。でも、忘れちゃいけない。自分は、そう思う。だから伝えなきゃいけないと思うし、そういう場所にも連れていこうと思っています」

熱っぽく紡ぐ言葉は、自然と主将としてシーズンへ向けた決意表明に行き着いた。

「去年は最下位。何かを変えなきゃダメ。主将になって、自分はチームを変えようと思っていますし、自分も進化しなきゃいけない。チームも自分も強くなりたい。被災地の方々のために、もう1回優勝したい」

原動力だけは、何年たっても同じだ。【亀山泰宏】