全国高校野球選手権が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。さまざまな元球児の高校時代を振り返る連載「追憶シリーズ」。第5弾は佐々木信也氏(83)です。太平洋戦争の終結から4年後の1949年(昭24)、神奈川県きっての進学校、湘南の1年生として全国優勝に貢献しました。のちに「プロ野球ニュース」のキャスターとしても名を残す男の原点を10回でお送りします。

  ◇  ◇

 佐々木は今でも「おやじのファインプレーだ」と思っている。小学2年で東京の世田谷から、神奈川県藤沢市の鵠沼海岸に引っ越した。太平洋戦争の真っ最中だった。

 佐々木 どうもおやじがね、太平洋戦争は負け戦だと読んだんじゃないかと思う。

 みるみるうちに戦況が怪しくなった。米軍の戦闘機を何度も見た。

 佐々木 相模湾からB29がどんどん飛んでいった。空襲があると、東京が、横浜が、平塚が赤くなった。

 大都市は攻撃の対象になりやすい。少し外れた鵠沼海岸への移住で、多少なりとも危険を避けられた。佐々木は、引っ越しのおかげで生き延びたと思っている。

 それでも危険な目に遭った。藤沢第三小学校へは、小田急線の本鵠沼から藤沢まで1駅だけ列車に乗って通っていた。だが、列車は危険だと、徒歩で登下校することに。約30人の下級生を引率して歩いた。ある帰路、機銃掃射に遭った。

 佐々木 牛舎の下に1年生から何からを詰め込んだ。バリバリバリなんてやられてね。運が悪ければ撃たれていた。

 紙一重で生き延びた。

 佐々木は1933年(昭8)、機械商社を営んでいた久男、静子夫妻の次男として生まれた。日本が国際連盟を脱退し、満州事変が起きた年だった。太平洋戦争に突き進む時期と重なる。戦争の影がついて回る幼少時代だった。


 その頃は、どんな性格だったのか。

 佐々木 あまり威張れないけど、もう病的な無口でね。そんな私がテレビで50年もしゃべる仕事をするとは。

 のちにプロ野球ニュースの名キャスターとは思えぬ過去を告白した。恥ずかしがり屋だった。幼稚園の頃、寝坊した日。遅れて登園したが、教室に入れなかった。

 佐々木 恥ずかしくて廊下にずっと立って、先生が気付くのを待っていた。気付いてくれないから、面倒くさくて家に帰っちゃった。

 次の日から通園しなかった。

 佐々木 幼稚園中退ですね。

 小学校でも変わらなかった。入学から2日目、学校に母が呼ばれた。担任から「お宅の信也君は2日間、何もしゃべっていません」と告げられた。出欠で名前を呼ばれても、黙って下を向いていた。成績も悪かった。

 だが、2学期に運命の出会いがあった。席替えで、クラス委員の石井節子と隣の席になった。節子は優しく接してくれた。

 佐々木 どうにかしなければ…と思ってくれたんでしょうね。

 毎日のように「3+7=」「4+6=」といった計算問題の宿題が出た。これをきちんと提出すると節子がほめてくれた。「すごい! 100点!」と言って、頭をなでてくれた。これがうれしかった。

 節子にほめられたくて宿題を頑張っているうちに、算数の成績が「丙」から「甲」に上がった。当時はいい方から「甲・乙・丙・丁」で評されていた。成績の向上とともに自信もついてきた。6年生になると全教科が「甲」になった。のちに、進学校である湘南高校に入れたのは、節子のおかげと言っていい。

 後日談がある。プロ野球を引退した後、フジテレビの「小川宏ショー」に出演した。初恋談議となり、広島に住んでいた節子と数十年ぶりに対面した。

 佐々木 石井さんは何も覚えていなかったよ。初恋も何もあったもんじゃない。

 83歳になった佐々木は、そう言って苦笑いを浮かべた。(敬称略=つづく)

【斎藤直樹】

 ◆佐々木信也(ささき・しんや)1933年(昭8)10月12日、東京都生まれ。湘南1年の49年夏、7番・レフトで甲子園に出場し、監督の父久男氏とともに優勝。慶大では2年秋にレギュラーになり、二塁手で主将も務めた。56年、高橋ユニオンズ入団。高橋解散後は大映、大毎に移籍。新人史上初の全イニング出場を記録した56年に180安打で最多安打、二塁手としてベストナイン。新人王は21勝の稲尾(西鉄)がいたため獲得できなかった。現役4年間の通算成績は466試合、1602打数424安打、13本塁打、101打点、86盗塁、打率2割6分5厘。26歳で引退後は評論家に。76~88年に「プロ野球ニュース」(フジテレビ系)の司会者。98年に日本プロ野球OBクラブ広報委員長。01~09年に再び「プロ野球ニュース」(CS放送)の司会を務めた。プロ現役時代は169センチ、76キロ。右投げ右打ち。

(2017年5月24日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)