PL学園のエース桑田真澄が投じた160球目だった。

4-4に追い付かれて迎えた延長10回表。1死一、二塁の好機に、5番の中島彰一が打席に入った。当時の報道によれば、試合後に中島はこう話している。

「偶然に見えたんです。桑田がセットポジションに入る直前にストレートの握りが。だからボールでも何でもいいと思って振り切った」

内角高めの直球は、明らかなボール球。いわゆる大根ぎりのスイングでとらえた。打球は左翼スタンドまで届いた。勝負を決定づける3ランだった。

吉田 普通あの球は振らないよね。でも、飛んだな。ベンチで泣いたよ。

劇的な3ラン。ベンチはどんな雰囲気だったのか。小菅勲の言葉を借りよう。

小菅 体の底から涙が出た。うれし涙って、こういうものかと思ったね。みんなで泣きながら「切り替えよう」と言ってたな。最後の守りがあるから。

10回裏を抑え、優勝が決まった。優勝旗を手にした吉田は、その重みに耐えかね、行進の最中に何度も左右で持ち替えた。閉会式が終わると、大会役員に「グラウンドで胴上げしてもいいですか」と確認し、許可をもらって監督の木内幸男を胴上げした。2回戦の箕島に勝った後、通路で大騒ぎして叱られた経験があったからだ。木内はこの大会を最後に常総学院へ移ると決まっていた。

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取手二ナインは指導者の道を歩んだ者が多い。中島は新日鉄住金鹿島で監督を務めている。佐々木力は、木内の後を受け常総学院の監督。小菅は土浦日大の監督として今夏の甲子園に出場した。下田和彦は取手ファイトクラブ、塙博貴は筑波ボーイズの監督として中学生を指導している。

木内 みんな県代表になる力のチームを作っている。「取手二みたいな野球をしたい」とか言ってるヤツもいるけど、そんな古いことやるなってな。高校では同士打ちもあるから、オレはどっちにもかまないよ。

彼らを率いていた時代に思いをはせた。もう33年がたった。

木内 あんなおもしろい学校なかったっすね。取手の子らは打てば響いた。今の高校生は「高校出たら大学行って…」とか先のことを考えてるけど、取手の子らはその瞬間だけ。その瞬間に全力を注いでいた。オレも若かったから、誠心誠意、勝つことにかけていた。子供と監督が、一番一体になったチーム。おもしろかったっすね。

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吉田は今、大阪・北区でダイニングサロンを経営している。店の名前は「T2」という。

吉田 取手二からとった名前です。原点だから。

取手二からドラフト2位で近鉄に入団し、阪神を含め17年間をプロで過ごした。阪神時代の2000年7月19日には、甲子園で巨人桑田からサヨナラ安打を放った。高校時代と同じ延長10回で勝負をつけた。

吉田 あの数日前に桑田とメシ食って「対戦したら打たせて」と頼んだのに、打席に入ったらマジで投げてきた。当たり前か。一塁を守ってた清原からも「ナイスバッティング」って言ってもらったな。彼らはオレらの世代の誇りだった。イチローと同世代の選手は、彼を誇りに思う。そういうものだよ。

高校時代、桑田が取手を訪ねてきた。彼にとって「なぜ取手二に負けたのか」の答えを探す旅だった。吉田は、桑田を自宅に泊めた。昼間は遊びにも連れ出したが、夜は語り合った。

吉田 「ずっと野球ばっかり一生懸命やってもダメだよ」と話した。メリハリだよ、人生メリハリ。彼女の存在もパワーに変えればいい。そういう話をした。

桑田は6月、この連載に登場してくれた。最終回、6月13日付の紙面で、今の球児に向け「何より恋愛を勧めたい」「恋愛は野球に生きると気づかされました」とメッセージを送った。もしや吉田の助言が元ではないか。そう言うと、吉田はうれしそうに笑った。

吉田 あいつが言うと、何かきれいやな。うん、桑田にはいろいろ教えてやった。野球だけじゃなく…。

これ以上聞いても、書けない話になるだけだろう。このへんで、ひとまず吉田劇場の幕を下ろしたい。(敬称略=おわり)【飯島智則】

(2017年12月10日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)

84年夏の甲子園、優勝旗を受け取り列に戻る取手二・吉田剛主将
84年夏の甲子園、優勝旗を受け取り列に戻る取手二・吉田剛主将