上宮時代と同じように、プロ入り後の黒田もすぐに頭角を現すことができなかった。3年目まで1軍と2軍を行き来し、初めて2桁勝利を記録したのは5年目だった。入団後しばらくは心技体のバランスがプロ仕様に整っていなかった。

2000年代に入り、ようやく先発の一角として地位を築いた。当時の広島は低迷しており、厳しいチーム状況が続いた。黒田は対戦相手との距離を取り、登板に向けた調整法を確立させた。登板2日前にはチーム関係者すら近づきがたいオーラを放つようになる。それだけ勝利に強いこだわりを示した。

黒田 もちろん技術的なところで足りないところもあったけど、メンタル面も強くなかったと思う。そういう中で自分が生きていこうと思ったら、やっぱりメンタルを強くしたり、スイッチを入れる方法を持ったりしないといけないと感じた。いろんなことをやりながら成長していけたんじゃないかなと思う。

03年には初の開幕投手を任された。監督の山本浩二から「エース」を託され、チームを背負う覚悟を決めた。プロ野球球団のエースという重責に耐えるには、強くなるしかなかった。

黒田 ずっと戦いだと思っていた。マウンドに上がる当日のブルペンに向かう前くらいに1度スイッチ入れて、そこから気持ちを集中させる。自分が登板するわけだから、笑顔も見せられない。それが自分にとって、いいパフォーマンスを出せるスイッチの入れ方だと思っていたし、一番のスタイルだと思っていた。それはメジャーへ行っても変わらずやっていた。

常に「生きるか、死ぬか」の覚悟を持って挑んできた。1度も楽だった試合はない。それはメジャーでも、広島でも変わらない。

黒田 プロになれば、何万のファンの前で投げることになる。投手である以上、100%の自信を持ってマウンドに上がりたいけど、そういうことは絶対にない。やっぱり毎試合、不安の方が大きい。勘違いすると痛い目に遭う。痛い目に遭いたくないがための防衛本能だったかもしれない。まだまだと思わないと伸びていかないと思っていた。野球をやっていて、これでいいわっていうのは野球を引退してからじゃないと無理。現役中はまだまだと思ってやらないといけない。

どこでプレーしようと、黒田は黒田だった。苦しいときこそ、闘争心をむき出しに相手打者に立ち向かっていった。その源流には、上宮の3年間で流した汗がある。(敬称略=終わり)【前原淳】

(2017年12月21日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)