少しばかり時代をさかのぼってみたい。

王が初めて手にしたボールは「白いボール」ではなかった。小学校に入学したのは終戦間もない1947年(昭22)。その頃から近所の友だちと見よう見まねで野球を始めた。王が生まれた東京・墨田区は戦争の爪痕がまだ深く深く残っていた。墨田区(47年に本所区、向島区が合併)は45年の東京大空襲で約70%が焼失。同区だけで6万人を超える死傷者と30万人近い被災者を出したという。実家の2軒先にあった消防署も空襲で燃えていた。子どもが立ち入ってはいけない場所だったが、こっそり入り込んで遊んだりもした。46年にプロ野球が復活。ラジオから聞こえてくる実況を聞いては、焼け跡の広っぱや、お寺の境内に集まってはボール遊びに夢中になった。

 近所の子どもと集まってお寺の境内とかでね。今行くと「こんな狭いところでやっていたのか」という感じだけど。棒きれと、ボールも布を巻き込んだようなものでね。ボールなんかないわけですから。捕るのも素手ですよ。あの頃は車も少ないし道路とかでもやったね。車が来たら「タイム」とか言ってね。

王の実家から1本通りを隔てたところに野球道具店というかグラブ店があった。今のような立派なグラブではない。ボールの当たる場所だけが茶色い革で、あとは布製だった。それでも店先に陳列してあるグラブに目を輝かせた。

 よく戦後のあの時代にグラブ屋さんがあったなあ。通るたびに見ているわけですよ。もちろん、買ってもらえるわけないですから。グラブ買うんだったら、食べるものに、という時代だったから。

遊びの中から「野球」を覚えていった。中学に入ると1年の時は野球部があったが、2年になると休部になった。戦争の影響もあって校区内にグラウンドが確保できなかったことが理由の1つだった。陸上部、卓球部を掛け持ちした。3年夏には砲丸投げで区大会で優勝。都大会まで進出したが「ファウル2回受けちゃって」(王)と12・66メートルの記録で4位に終わった。休部している野球も大会前になるとチームをつくって出場した。急ごしらえのチームでも王の存在が大きく墨田区中学野球大会であっさり優勝した。中学時代、王は地元の高校生などが集まってつくった「厩四(うまよん)ケープハーツ」という草野球チームにも所属していた。

 ケープハーツの時が一番、熱心に野球をやりましたね。でも、それでも土日しか野球はやらないんだよ。土曜日1試合、日曜日1試合。僕はね、中学2年の時から月火水木金というのは野球をやったことないんですよ。

時代も違うのだろうが、王は実にスポーツに対して伸び伸びとした生活を送っていたように思う。ケープハーツでは年上を差し置いてすぐに主軸を打った。

 僕が恵まれていたのは小学校の時もそうだけど、常にレベルの上の人、年齢的にもね。野球の上手な人にもまれていたというのが良かったんじゃないですかね。

時間をまた戻そう…。56年夏の初めての甲子園で、制球難により屈辱の敗戦を味わった王は、投球フォームを改造することになった。(敬称略=つづく)【佐竹英治】

(2017年12月25日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)