1年生だった1956年(昭31)夏に初めて甲子園に出場した王は、大会後、制球力をつけるためにフォーム改造に着手することになった。その前に少しばかり早実野球部・王の日常を振り返ってみたい。

野球部時代の王は通学だった。入学時に100人ほどの部員がいたが、合宿所はなかった。王は墨田区業平の自宅から都電に乗って毎日、学校へ、そしてグラウンドへ通った。

 (都電の)24番という電車に乗って、上野広小路まで行って、そこから39番に乗って早稲田まで行くんですよ。

学校が終わると、練習のため、当時、武蔵関(東京都練馬区)にあったグラウンドに行った。早大のスクールバスが高田馬場まで走っており、授業が終わるとそれに飛び乗って高田馬場まで行き、西武新宿線に乗り換え、武蔵関まで移動した。学校に併設したグラウンドがない都会ならではの“通勤風景”だが、高校生にとっては、この時間が楽しみの1つでもあった。

 武蔵関駅の近くに「ミネルバ」というパン屋さんがあってね。そこに部員が全部カバンを預けて練習に行くんだから。お店は大変だったんじゃないかな。でも、帰りにそこでコッペパン買ってジャム塗ったり、バター塗ったり、牛乳買って、電車の中で食べながら帰るんだよ。おいしかったね。

日の長い夏場は練習時間も遅く、帰宅時間は午後10時を過ぎることもあった。比較的練習が短い冬は、友だちと連れだって、渋谷の方に足を伸ばして帰ることもしばしばだった。

そんな日々の中、1年の秋、投球フォームにメスを入れた。それまで振りかぶって投げていたいわゆる「ワインド・アップ投法」からグラブを胸あたりに収め、投球動作に入る「ノーワインド・アップ投法」へ矯正した。早実OBで、実質、総監督的な存在だった久保田高行のアドバイスがきっかけだった。振りかぶった場合、王は頭が揺れ、フォームが安定しないことがあった。それが制球難につながっていた。新フォームは当時では珍しかった。その年のワールドシリーズ第5戦(対ドジャース)で完全試合を達成したヤンキースのドン・ラーセン投手のノーワインド投球のフィルムも、早実OBである荒川博の自宅で見た。

 ノーワインド投法にするのに、荒川さんの家で8ミリか何かの映像を見せられてね。ドン・ラーセンの投法をね、でも僕のフォームとは違ったけどね。

ブルペンでは「低くしっかり」投げることを徹底させられた。新フォームはもう1つの王の武器であったカーブの精度も上げた。王は高校時代、1度も肩、ヒジを痛めたことがない。カーブも指先でピュッとボールを鋭く回転させる練習でキレと感覚をつかんでいった。

翌57年のセンバツ出場をかけた秋季大会は優勝。王はノーワインドで投げた。早実は4試合で3完封。失点も1点のみという強さで大会を制した。エースで4番となった王はセンバツ切符を手にした。(敬称略=つづく)【佐竹英治】

(2017年12月26日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)