グラウンドを離れても、小倉全由は一番に選手を気にかける。関東第一の監督時代はお祝いの日にはケーキを自腹で購入し、プレゼントした。選手は大喜びだったが、家計に直接響いた。夫人の敏子からは「領収書をもらうことは出来ませんか?」と言われたが、小倉は「男が領収書なんて、もらえるか」と突っぱねた。

日大三では、スイーツは会話のお供に変わった。叱った選手を監督室に呼び、ジュースやデザートを食べながら、思いを伝える。09年に主将を務めたロッテ吉田裕太も、監督の厳しさと優しさに触れた1人だ。「役付きだから」と主将には厳しく接するのが小倉流。吉田も度々怒られたが、点呼の報告後、プリンやヨーグルトを一緒に食べた。

吉田 ごちそうになる時は、怒られたことには直接触れないんです。世間話も多くて「彼女、いるのか?」なんてことも聞かれた。本当のお父さんより、お父さんみたいでした。

小倉 ねちねち怒るのは嫌いなんで。だから、監督室では甘いもの食べながら、腹割って話そうよと。

吉田と同学年のロッテ関谷亮太は、監督と食べたラーメンが忘れられないという。3年生の6月、小倉は練習試合でも不調続きだった関谷とともに数人をラーメン屋に連れて行き「ここまで来たら、ぐちぐち怒ることはしない。甲子園に出られるように頑張ろう。そのためには、お前らが気持ちを出せ」と言った。

関谷 監督の言葉で切り替えられた。アメとムチはありましたけど、1人1人を見てくれていた。

小倉は「常に真剣、駆け引きはないです」と全力で1人1人と向き合い続ける。過去に両膝の半月板を手術し、医師からは右肘の手術も勧められているが、今もノックバットを手にグラウンドに立ち続ける。

小倉 一緒になって、デカイ声を出して、熱くなって。一番の幸せだなと。熱くなれる間はまだやれるなと。それがなくなったら辞める。

振り返れば、武骨に野球道を貫いてきた。30年以上も監督人生を送れたのは、家族の存在が大きかった。「(妻に)言ってあるんです。どこでも行くから、行きたい場所を探しておいてって」。小倉が2人の娘と一緒に生活したのは、関東第一の監督を1度離れた約4年間のみ。寮に住み、家に帰るのは練習の休みや年末年始だけだった。

小倉 娘が結婚式で手紙を読んだ時、「また監督をやると言った時は寂しかった」と言われてね。正直、「練習に行かないで」と泣かれた時はつらかった。

だが、小倉は以前、夫人の敏子にこう言われた。「(1度監督を離れた)4年間いろんなところに行ったけど、空白というか、何も残ってないんだよね」。小倉は少し照れくさそうに、家族への思いを語った。

小倉 どんな時も支えてくれたのは家族。家族がいたから、こうして自分も続けてこられた。

60歳の小倉は、高校野球の監督の魅力を「方程式がないから、面白いんです」と語る。24歳の時に関東第一の監督に就任。36年が経過した今も、「周りからは勝ち方を知っているとか言われるけど、わからないですよ。だから、今も熱中できるんです」と笑った。

小倉は今の夢を聞かれ、即答した。「甲子園でもう1回優勝したいです」。甲子園を思い、小倉は今日もグラウンドに立つ。(敬称略=おわり)【久保賢吾】

(2018年1月16日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)