馬淵史郎率いる阿部企業は86年に都市対抗初出場を果たす。初戦の相手は優勝候補の三菱自動車川崎。当時、豪快な打撃で「神戸の暴れん坊」の異名を取ったが、さすがに分が悪かった。そこで馬淵は一計を案じた。都市対抗には補強選手制度がある。阿部企業は、三菱グループの選手を加入させていた。大会直前にグループ会社で激励会がある。そこを狙った。補強選手にこんな指示を出した。

馬淵 うちの先発投手を絶対に聞かれるから、「ヤン(陽)だと思います」と言え。

三菱相手に偽の情報を流す。三味線をひいた。陽介仁はエースだったこともあり、相手も疑念はなかった。右下手投げに対し、左打者をズラリと並べた。そこに、補強選手の左腕岡本をぶつけた。策は的中する。7回1死まで無失点の快投を見せた。3-2の逃げ切り勝ちで初戦突破。86年7月30日付の毎日新聞には、こんな大見出しがついた。

「初陣・阿部企業が初戦金星」

馬淵は記事の中でこう語っている。「うちにしては出来過ぎですが、野球は強いところが、いつも勝つとは限らないですよ」。6年後に、明徳義塾を率いて、星稜と夏の甲子園の初戦で対戦するが、力関係で言えば、この時と同じような構図だった。わずか200人の会社が大企業を倒す。初の全国舞台でベスト8まで進んだ。

ここで策士馬淵を生んだ土壌に触れたい。恩師である田内逸明(故人)、そして愛媛野球が大きな影響を与えている。田内は南宇和や松山聖陵など愛媛県内の高校の監督を歴任。教師ではなく、いわゆる「職業監督」だった。馬淵が三瓶(みかめ)高3年夏のときに赴任した。現役を終えてから接点を持った。

馬淵 作戦が100あるなら、50は教わった。理論家であり、サインの見破り方もうまかった。

ボールを買うために、家財を売るほど野球に執着した人物だったという。阿部企業時代に、馬淵が「そこまでやるか」と驚いたエピソードがある。ランナー三塁で、本盗のサインを出す。事前に打者に指示を送っていた。「すぐに振るな。捕手は走者にタッチにいくから、ミットをたたけ」。打者は忠実に任務を遂行。脱げたミットが投手の頭上を越していった。田内は審判に平然と言い放ったという。「打撃妨害や。こいつはいつも振り遅れるんや」。当然、守備妨害のジャッジが下されるが、そこまで勝敗にこだわった。

その田内の源流には、愛媛野球がある。松山商に代表されるように、守りを中心とした隙のない野球が特色だ。松山商は戦前から高松商と激しいライバル関係だった。水門を開けて、故意に試合を中止にさせたり、相手の宿舎で夜中に太鼓を打ち鳴らしたり。地元民も巻き込んで、両校は壮絶な戦いを繰り広げてきた。熱狂の高校野球。そんな逸話を聞き、馬淵も育ってきた。1点にこだわる野球が体に染みこんでいる。

86年は秋を迎えた。日本選手権にも初出場し、決勝に進む。舞台は大阪球場。10月27日にNTT東海に敗れ、準優勝。雑草軍団の旋風は止まった。

馬淵 監督になった時は若かったし、バカにもされた。でも、よく辛抱した。よく勝ったよ。人間、やってやれないことはない。人生が変わったよ。

その夜、大阪ミナミに繰り出した。決意を固めて、朝まで飲んだ。「もう神戸には帰らんぞ」。監督業との決別だった。(敬称略=つづく)【田口真一郎】

(2018年2月24日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)