登校してきた部員に向けられた報道カメラのシャッター音を聞きながら、西谷浩一は夢の終焉(しゅうえん)を悟った。報徳学園(兵庫)3年、17歳の晩春だった。下級生部員の暴力事件が発覚。野球部は夏の兵庫大会を辞退することになった。高校最後の夏を迎える前に、学校から自転車で通える距離の甲子園は、手の届かない場所になった。目標を失った3年生部員は1人、また1人と、部を去った。

西谷 学校をやめたチームメートもいました。でも、僕自身はそんなところで終わりたくなかった。

西谷ら残った3年生は、甲子園出場という目標がなくなった部活動を黙々と続けた。ただ、新チームへの移行期が迫っていた。

西谷 最後までやろうと思っても、どこが最後か分からなかった。夏の兵庫大会の初日、開会式のその日で一応、僕らの部活動は終わりました。

失意の夏のあとに失意の秋冬が待っていた。関大野球部の練習に参加し「いい野球部やな」と入部への意欲がわいた。だが、関大に入るには、一般受験で合格するしか道がなかった。

西谷 セレクションやスポーツ推薦しか頭になくて、一般受験の感覚が当時の僕にはなかった。でも(一般受験と聞いて)おじけづいたんかみたいなことを周りから言われて、売り言葉に買い言葉じゃないですけど「じゃあ受けます!」と言ったのが8月の終わり。(入試まで)5カ月あったらなんとかなるんじゃないかという甘い考えがありましたんで、受けて、落ちたんです、全部。

猛勉強は実らなかった。失意は上書きされた。それでも、信頼する野球部顧問の言葉を支えに、西谷は次へと目を向けた。野球の指導者を目指す将来像を知る顧問は「野球も勉強も、ちゃんとした学校に行かなあかん」と言った。浪人の立場、予備校という場所を初めて知り、再び西谷は猛勉強に挑んだ。翌年、晴れて関大の学生になり硬式野球部の門をたたいた。

西谷 今考えたら、浪人したのは大きかった。ちゃんと1年間勉強したことは今までなかったですし、野球をちょっと離れてその後、やりたい意欲は倍増したわけですし。人脈でいうと2学年同期ができた。同志社を例に取ると、片岡(篤史=阪神ヘッド兼打撃コーチ)と宮本(慎也=ヤクルト・ヘッドコーチ)が両方とも、僕は同期になる。当時の関西学生もよかったです。レベルが高かった。

同大にはのちの「ミスター・アマ野球」杉浦正則(元日本生命監督)、関学大にはのちのワールド・チャンピオンメンバー、田口壮(オリックス2軍監督)らがいた。西谷自身、関大4年時は控え捕手の立場で主将を務め、全日本大学選手権準優勝を経験。大学では、日の当たる場所で選手としての現役を終えた。

西谷 僕は甲子園も出られなかった。不祥事で、最後の夏の大会にも出られなかった。周りから「報徳行って失敗やったな」と言われました。でも僕は1度も、報徳に行って失敗やったと思ったことはないんです。悔しいし、つらかったけど、あこがれてあこがれて行った場所だったから。報徳がそれだけの学校だったから。大阪桐蔭もそんな学校にしたい。僕がそう思わせないといけない。

学校への思いがあったから、夢を閉ざされても救われた。その経験は、西谷の道しるべになった。(敬称略=つづく)【堀まどか】

(2018年3月6日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)