春夏6度の甲子園制覇を誇る大阪桐蔭でも、甲子園を知らずにユニホームを脱ぐ者もいる。阪神岩田稔もその1人だ。聖地の土は踏めなかったが「大阪桐蔭に入っていなければ、今のぼくはない」と言う。

岩田 西谷監督からはよく「野球だけをやっていたらあかんぞ」と言われていました。1人の社会人として恥ずかしくないようにとあいさつ、礼儀の大切さを教えられてきました。

指導、育成だけではなかった。2年の冬、1型糖尿病にかかった岩田を毎日のように見舞ったのが西谷浩一だった。練習後、いつもユニホーム姿で病室を訪れた。ボール、グラブに始まり、ダンベル、チューブと、見舞いの品はいつも体を鍛える器具だった。

岩田 入院している自分なんかでも、ずっと気にかけてくれるんだ。そんな時間はないはずなのにと感激したのを今も覚えています。監督が持ってきてくださる物で「また頑張ろうな」という気持ちがすごく伝わって、僕は前を向くことができました。

同じ病気を抱える子供を思いやり、手を差し伸べる今の岩田の姿は、自分を置き去りにせず、常に期待感を持って回復を祈ってくれた指導者との交流で育まれた。

オリックス沢田圭佑は完成度、投球術なら他校では絶対的エースになれたと言われながら、大阪桐蔭では1番手になれなかった。甲子園では2桁背番号で同期の藤浪晋太郎(阪神)を支えた。12年甲子園春夏連覇に不可欠な存在ながら、登板は2試合にとどまった。それでも大阪桐蔭を選んだことに悔いはない。

沢田 大阪桐蔭は人も物もそろう学校。いい環境でやらせてもらえたし、自分より力のある選手をたくさん見ることができた。一般社会でも、自分より力のある人、才能のある人をたくさん見た者が勝ちじゃないですか。違う学校で1番になれたとしても、他の学校に行けばすごい選手はたくさんいる。そういう学校には勝てないです。

立大でエースになり、プロに入った。

沢田 プロで金子(千尋)さんらすごい人に出会った。そういう人たちと競争していかなければならない。早くから競争を知った方がいいんです。

沢田の競争は、15歳の春から始まっていた。その環境に感謝する。

西谷が大事にしていた切り抜きがあった。08年8月18日付の日刊スポーツに掲載されたPL学園(大阪)元監督・中村順司(名古屋商大総監督)のコラムだ。

「今夏の大阪桐蔭はスター不在と言われたが、1人1人が力を持つ。ある意味、中田君(翔=日本ハム)ら先輩が育てた力でもある。超高校級だった中田君が努力する姿を、今の選手は見てきた。(中略)伝統の力を大阪桐蔭は持つチームになった」

準決勝で横浜(神奈川)を9-4と圧倒し、17年ぶりの夏の決勝にナインを評したコラムだ。

西谷 切り抜いて机に入れていました。こうやって見てくれてる人がいるんやって。またそれを中村監督が言ってくださった。すごくうれしかったんです。

4年前、広島の河川敷で見た中田は、努力できる逸材だった。その後ろ姿を見て育った浅村栄斗(西武)らが、17年ぶりの全国制覇を成し遂げた。各年代が年輪となり、大樹は天に枝を伸ばし続ける。(敬称略=おわり)【堀まどか】

(2018年3月8日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)

12年夏の甲子園準々決勝、天理戦で1失点完投勝利の藤浪(左)は西谷監督とひそひそ話
12年夏の甲子園準々決勝、天理戦で1失点完投勝利の藤浪(左)は西谷監督とひそひそ話