先日、とあるところで4回生の女子大生と言葉を交わす機会がありました。就職が決まっていることは知っていたので「いよいよ社会人やね」と言うとこんなことを言います。
「そうなんですけど入社は6月なんです。それまではフリーで。お給料はいただけるらしいんですけど」
言うまでもない新型コロナウイルスによる影響です。他にも「入社はするけど、まだ出社はしない」という話も耳にしました。
思い返せば就職、つまり日刊スポーツに入社したのは32年前の88年4月1日でした。何も分からず不安なままの入社でしたが、あっという間に月日はたち、この春からは33年目ということになります。
当時に比べて新社会人は本当に不安な春を迎えたと思います。いや新社会人だけではありません。33年目のこちらも含めて、すべての人が不安な思いを抱えての春となっているのではないでしょうか。
同時に「それでも何とかなる」と心のどこかで思う自分がいることも否定しません。
過去の社会人生活だけを振り返っても、世の中はどうなってしまうのかという場面はこれまで何度もありました。
阪神・淡路大震災(95年)東日本大震災(11年)に代表される災害や多くの事件、事故と心底、震え上がらせることは多くありました。
個人的なことを書かせてもらえれば自身最大の危機は20年前でした。
00年11月に妻が35歳の若さで突然死しました。残されたのは小学1年、幼稚園の年中組、そして生後11日の赤ちゃんという3人の娘でした。
当時、37歳だった私の心を占めていたのは悲しみはもちろん、子どもたちをふびんに思う心です。同時に強く感じて仕方がなかったのが「終わったな」と言う思いでした。
何が終わったのか。自分でも分からないけれど、すべてが終わってしまったような虚無感が強かったことを覚えています。
どういう精神状態か分からず、それからしばらく散髪も行かずにロン毛のようになっていました。
それから20年。3人の娘は社会人、大学生に育ち、長女は昨年、結婚しました。「よく、やってこれたなあ」という思いが正直なところです。もちろん母親、兄らの家族、会社の理解もあっての20年だったことも間違いありません。
そして思い返せば、心掛けていたのは「そのときにできることをする」ということでした。寝不足で夜遅く帰宅したとき、子どもが「絵本読んで」と言えば、すぐにベッドに飛んでいき、真冬に母親が「灯油がなくなってるで」と教えてくれれば、食事中でもすぐにクルマを出す。
幼い子どもの顔をみれば妻を思い出します。と言うより忘れたこともありませんでしたが、それでもとにかく絵本を面白く読むことに集中しました。
仕事面でもそうでしたが、なるべく余計なことは考えず、目の前のことに集中するよう心掛けていました。
そんな自分を振り返って思い出すのがイチロー氏です。
あれはヤンキースに所属していた頃です。恒例にしていた神戸での自主トレ中、ふと聞いてみました。当時、代打などが中心になっていた起用法について、でした。
「スタメンで出たらもっとやれると思ってるんちゃうの?」
そんな質問にイチロー氏は真剣な表情で言ったものです。
「それは自分でコントロールできないことですから。それを考えても意味がない。時間がもったいない」
この種のことは、最近、よく耳にします。それでもイチロー氏が発するのは、まさに別格でした。
そして思ったのは自分がやってきていたのも、そういうことだったのかな、という納得でした。
妻がこの世を去ったことは、もう、どうにもできない。できるのは子どもたちと遊ぶこと。そのために仕事をする。その積み重ねで生きてきたように思います。
いま、世の中は本当に暗いムードに包まれています。どうなるのか先が見えない。みんな同じでしょう。でも、できることはあります。コロナ問題に関して言えば感染をしない、感染を防ぐために自宅待機を続ける、免疫力を含む栄養に気をつける、ちゃんと寝る…などもそうでしょう。
自分のレベルで、できることをする。不安になるようなことはなるべく頭から追い出し、やるべきことをやれる範囲でやる。その繰り返しが大事だと思いますし、32年間の社会人生活で学んだこともそれです。
犠牲になられた方々も多いので簡単には言えませんが、時がたてば「あの年、あの頃はあんなことがあったな…」と思える日が必ずやってくるはず。
社会のルーキーたちが世に出る新しい春にそう信じています。