鳥羽(京都)の夏が終わった。第1回大会優勝校、京都二中の流れをくむ鳥羽が69年ぶりの夏8強を目指したが、興南(沖縄)に再逆転負け。全近畿勢が2年ぶりに3回戦で敗退した。

 100年の夏が終わった。6日の開会式。入場行進を先導したのは、1915年第1回大会出場校の京都二中ら10校。100年続いた夏に開幕を告げたのは、鳥羽・梅谷主将の選手宣誓だった。「節目の年に生徒と一緒に鳥羽のユニホームで甲子園に来られたことを光栄に思います」。選手に注ぐ山田知也監督(39)のまなざしは柔らかかった。

 170センチ、66キロの小さな体に、エース松尾は100年の重みを背負っていた。無我夢中で京都の頂点に上り詰めたときは、意識になかった重い歴史。レジェンド校と注目を浴びるうち、甲子園全3試合を1人で投げ抜く支えになった。

 5回無死一塁、7回1死二、三塁。細心のスライダーでバント、スクイズを狙った相手のバットを空振りさせ、ピンチの芽をつんだ。同点の8回1死三塁でついに興南の打力に屈したが「ベンチ外のメンバー、家族が支えてくれて甲子園でここまで来ることができた。第1回では京都二中が優勝しているので次は鳥羽として優勝したいと思っていました。夢は伊那ら後輩に託したい」と顔を上げた。 伊那は、06年夏の早実(西東京)・斎藤佑樹(日本ハム)の投球を見て柔道から野球に転向。この日は全得点をたたき出し「また甲子園に帰って来たい」と次の目標を定めた。

 46年夏のメンバー河畑鎮さん(82)は、早実との決勝を願って、実現すれば徹夜で席を取る思いでアルプスから声援を送ってきた。「100年後に出場してくれたことに、ありがとうと言いたい」とねぎらった。夢を追う選手、支える人がいて100年の歴史は紡がれてきた。【堀まどか】