79年に甲子園大会で史上3校目の春夏連覇を果たした箕島(和歌山)の元監督、尾藤公(びとう・ただし)氏が6日午前3時37分、ぼうこう移行上皮がんのため、和歌山市内の病院で死去した。68歳だった。66年の監督就任後、春夏合わせて14度甲子園に出場し、春3度、夏1度制覇。79年夏の3回戦・星稜(石川)戦の延長18回の激闘は、高校球史に残る名勝負だった。95年夏の退任後は、日本高野連常任理事として高校野球の発展に力を尽くしてきたが、近年はがんとの闘いが続いていた。

 センバツ開幕を17日後に控えた6日未明、甲子園の名将がこの世を去った。長男強さん(41)にみとられ、息を引き取った。04年4月に始まったがんとの闘いが終わった。息ひとつするにも苦しんだことがうそのように、眠るように逝った。

 04年4月に前立腺摘出手術。1カ月後にはぼうこう摘出の大手術を受け、07年12月には食道と胃にも転移。09年4月には骨盤にがんが転移。手術が困難な場所で、夏場は放射線治療を受け続けた。昨年9月23日に行われた星稜とのOB戦に車いすで来場し、ユニホーム姿で指揮を執ったのが甲子園との別れになった。

 年明けは容体も安定。前日5日も春夏連覇時の主将、上野山善久さん(48)らと病室で歓談していた。夜に血圧が下がったことで、さとみ夫人(63)が強さんに「お父さんについていて」と頼んだという。虫の知らせだった。

 箕島時代は強肩捕手でならし近大に進学も、腰痛の悪化で野球も大学生活も断念。地元の有田市に戻り、和歌山相互銀行に勤めていたときにOB会の要請を受け、66年春に監督に就任した。同年6月、3年生が全1年生を並ばせバットで尻を殴る姿を目撃し、激高。上級生を殴ろうとして我に返った。選手の話を聞き「ボール拾いも打撃投手もみんなが一生懸命にやって、1つになって勝利を目指せる。そんなチームをつくるのが監督の自分の仕事やと気付いた」と言う。監督生活を通じて説いた「フォア・ザ・チーム」の精神はこのときの経験からだった。

 エース東尾を擁し、68年春4強。70年春はエース島本講平で、初優勝した。以来箕島を常勝チームに育て上げた。72年春の甲子園初戦敗退が要因となって監督を辞し、2年半ボウリング場で勤務。接客業で人との接し方を学び、74年の監督復帰後、糧にした。77年春、79年春夏連覇。79年夏の3回戦、星稜との延長18回の死闘は高校野球史上に残る名勝負として語り継がれている。「尾藤スマイル」と形容された笑顔、人心掌握で選手を育て、後輩監督の手本になった。

 病を得ても甲子園、そこにかかわる人を見守り続けた。09年春、箕島が18年ぶりに甲子園に出場し、初戦を突破。アルプススタンドで校歌を歌いながら「長生きするもんやな」とつぶやいた。2年後「命の延長戦」を静かに終えた。【堀まどか】