日米通算200勝を挙げた巨人田中将大投手(36)と親交の深いパドレスのダルビッシュ有投手(39)が、交流の一端を明かした。侍ジャパンの同僚として親交を深め、互いに「マサオ」「ダルさん」と呼び合う仲。時にダルビッシュがイジることもある一方、2学年違いながら刺激し合い、尊敬し合ってきた。日米両国で同じような足跡をたどってきた後輩田中の姿は、ダルビッシュの目にどう映ってきたのだろうか。【取材・構成=四竈衛】
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ダルビッシュが田中将の存在を知ったのは、東北高3年時の04年。夏の甲子園が終わり、ドラフトで自らの指名を待つ頃だった。
「2歳違いですけど、(田中将が)1年秋の神宮大会あたりから背番号2だったのに投げていたりして、そこから知ってましたね」
それから2年後の06年、ドラフト1位で楽天入りした田中の資質は、日本ハムのエースとなっていたダルビッシュの目にも「一級品」として映っていた。
「単純に、投手としてすごかったですね。最初はスライダー投手というイメージがあって、たまにフォークを投げる感じだったんですけど、球も速かったですし、すごい投手だなと思っていました」
その後、2人は互いにエースとして好勝負を繰り広げた。そんな2人の距離が縮まったのが、08年の北京五輪だった。当時の日本代表では、上原浩治、川上憲伸ら先輩格が主軸で、ダルビッシュ、同学年の涌井(現中日)、最年少の田中将は若手組。自然と一緒の時間を過ごすことが多くなった。
「仲がいい感じはあります。その3人でつるんでたという感じでした。年齢が近いので。他の方は年齢が上で、ちょっと怖いみたいな…。そこでマー君をイジったりしてました」
その一方で、技術的な情報交換も頻繁に行った。
「意識というほどではないですけど、刺激は受けてました。スライダー、スプリットの握りとか教えてもらったりしてました。僕は当時あまりスプリットは投げてなかった。つい最近、ちょっと変えましたけど、(米国でも)ずっとマー君の握りで投げてました」
田中将の帰国後も、随時連絡を取り合い、登板内容もチェックしてきた。ダルビッシュ自身も故障などで離脱した時期があるだけに、過去数年間、もがいていた田中将の胸中は手に取るように伝わっていた。
「年を取ると、行き詰まるところが絶対にある。自分もありますし、そこを抜けるためにどう自分の引き出しを使うか。それをずっと探しているところだろうなと思います。肉体的にも筋力、可動域、連動がうまくいかなくなったり、いろんな機能が変化する。いろいろと苦しむ中で、改善するためにいろいろやっているんだと思います」
田中将はそんな苦境を乗り越え、大台に到達した。
「後輩ですけど、友達という感覚が強い。200勝は、僕の中ではあまり…。そういうレベルの投手なのは分かり切っていること。もうとっくに認めてるというか、上から目線になりますけど(笑い)」
ダルビッシュは、公の場では田中将のことを「田中」と呼ぶものの、直接会えば「マサオ」と呼ぶ。「名付け親」は「多分、球児さん(藤川=現阪神監督)」。北京五輪予選の際、「(最年少の田中将が)社長みたいにどっしりしてるから、球児さんが“社長”って言い始めて、そこからなぜかマサオに変わりました。自分は今でも、マサオって言っちゃいます。マー君も、田中もおかしいし、マサヒロとも呼ばないです」。
マウンド上で投げ合えば、腹の底からほえるほど闘志をむき出しにする2人も、私生活では仲の良い兄弟のように距離が近い。
「僕が(日本に)帰っていないんで。何年か前に帰った時、東京で2人で食事しました。それ以来、会えてないんです。やっぱり会いたいですね。メシにも行きたいですしね」
今オフ、もしダルビッシュと田中将の再会が実現すれば…。日米通算200勝に到達したレジェンド2人の「合同祝賀会」は、いつまでも話が尽きそうにない。



