センダイガールズ新宿FACE大会の冒頭で黙とうする選手ら。左から愛海、DASH・チサコ、橋本千紘、里村明衣子、岩田美香(2019年3月11日撮影)
センダイガールズ新宿FACE大会の冒頭で黙とうする選手ら。左から愛海、DASH・チサコ、橋本千紘、里村明衣子、岩田美香(2019年3月11日撮影)

2019年3月11日の夜、仙台を拠点にするセンダイガールズプロレス(仙女)は東京・新宿FACEで「あの日を忘れない」と銘打つ試合を行った。午後7時の開始直後、選手と観客が一緒に1分間の黙とうをささげる。代表の里村明衣子(39)はリング上で「何が起こるか分からない。あの時、日本中、世界中の方々が助け合ってここまでこられたこと。センダイガールズもたくさんの方に支えられてここまでこられたこと。絶対に忘れたくない」とあいさつした。ネオンきらめく歌舞伎町のど真ん中で、来年もこの興行を継続する予定だ。

東日本大震災から8年。被災地の復興の歩みと、どん底に落ちていたプロレスの人気回復は重なる。プロレス再ブームの立役者である新日本の棚橋弘至(42)にとって、仙台は特別な意味を持つ場所だ。2000年代、新日本仙台大会の場所は、約1500人の収容が可能なzepp仙台だった。だが、客席が満員になることはなかった。現在新日本の公式ページに残る観客数を調べると、07年から10年にかけて行われた年2回ほどの興行の観客数はいずれも500~600人程度。静かな試合が続いた。

「苦手な場所だった」という仙台で、ある日、棚橋は怒りを客にぶつけたという。「お通夜みたいに静かな試合をして、その後、逆ギレしたんです。お客さんに向かって『何を見てんだよ、って』。自分が技量がないだけだったのに…」。それでも棚橋は、苦手な仙台で地道な努力を続けた。仙台を拠点に活動するカメラマン松橋隆樹さんは、その過程をそばで見てきた1人だ。

「あの頃、zepp仙台での試合が終わると、僕ら有志で企画し、ファン3、40人ぐらいで仙台出身の田口(隆祐)選手を囲む会をやっていたんです。ある時、棚橋選手がゲストで来てくれて、酔っぱらって、仮面ライダーの歌をアカペラで歌ってくれたことがありました。今では考えられないけど、そういう小さな会合にもよく顔を出していました。昔からプロレスファンの僕からすれば、プロレスラーは孤高でいてほしかったし、何もそこまでしなくても…と思ったりもしました。でも、棚橋選手は正しかった」。

11年2月、さらに大きな会場、仙台サンプラザホール大会でのIWGPヘビー級防衛戦に備え、王者の棚橋はテレビ、ラジオ各局、雑誌など宮城県内のさまざまなメディアでのPRに駆けずり回った。迎えた当日。会場は3200人の超満員となった。メインで挑戦者の小島聡を下し、初防衛に成功した棚橋は「今日、仙台のこの日を、生涯忘れません」と涙を流した。その場にいた松橋さんは言う。「あれは“神”試合だった。今でも仙台のファンは、あそこが(プロレス)ブームの始まりだった、と思っているんです」。

その1カ月後。震災直後の13日に新日本は浜松で試合を行った。棚橋はマイクでこんな言葉を残している。「先月、ベルトをかけてタイトルマッチを仙台でやりました。その会場では、ものすごい声援で、俺を、俺らを応援してくれたプロレスファンの仲間がいました。今、俺にできること、俺たちにできること、それはプロレスを通して、みんなに、全国に声援を送っていくこと」。あきらめない。その姿をリング内外で示し続ける棚橋は、そこからスターの階段を上っていった。全国各地の会場が満員になる今でも、棚橋は普及の手を緩めない。「もう今年以上はないと思ってやってきているけど、毎年、毎年忙しさを更新している」とこの1月、うれしそうに話していた。

女子プロレス界の横綱こと仙女の里村は、勢いを取り戻した新日本プロレスに勇気づけられ、今もその取り組みを所属選手とともに学んでいるという。震災後、選手は一時、里村とDASH・チサコの2人だけとなったが、途中の増減を経て、今は7人。興行数も数年前の5倍に増えるなど、やっと軌道にのってきた。「男ができたのだから、女もできるはず。女子プロレスも大ブームにする。地方から世界一を目指します」。仙台の地で、またプロレスの新たな風が吹こうとしている。【高場泉穂】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

仙台市内の茶屋で対談する里村明衣子と棚橋弘至(2016年9月16日撮影)
仙台市内の茶屋で対談する里村明衣子と棚橋弘至(2016年9月16日撮影)