元プロレスラーの天龍源一郎(71)のアスリート人生の連載第7回は、引退までの道のり。09年ハッスルの解体により、活動の場を失った天龍は翌10年に天龍プロジェクトを設立。11年に腰部脊柱管狭窄(きょうさく)症で療養するなど、出場機会も減り、15年に引退を表明。同11月の引退試合では、暴言を吐かれたことに憤り、オカダ・カズチカを指名した。【取材・構成=松熊洋介】

00年代以降も天龍はさまざまな団体のリングに上がり続けた。一時全日本にも復帰し、新日本、ドラゴンゲート、ノアなどで活躍したが、所属していたハッスルの活動停止により、10年に自ら天龍プロジェクトを設立。娘の嶋田紋奈氏が代表を務め、若手選手に活動の機会を与えた。

当時60歳の天龍は試合間隔も空いてきたこともあり、リング上での激しいパフォーマンスを見せる機会は減ってきた。11年には腰部脊柱管狭窄(きょうさく)症で長期欠場。2度の手術を乗り越え、1年後に復帰したが、14年末に「引退しようと思う」と嶋田氏に伝えた。嶋田氏は何度も確認したが、39年のプロレスラー人生に別れを告げる覚悟は変わらなかったという。

15年2月に会見。「廃業します」。角界出身の天龍らしい言葉を使い、決意の強さを伝えた。「プロレスを続けてこれたのは、家族の支えがあったから。一番支えてくれた妻が病気で、今度は俺が支えていく番」。その後11月まで「引退レボリューション・ファイナル・ツアー」として全国各地でシングル、タッグ計21戦を戦い、17勝4敗と奮闘した。

11月15日の最終戦の相手にはオカダを指名した。3カ月前の8月に、対戦交渉をするため、オカダの試合に駆けつけた。13年末に、当時新日本で力を付け、現役最強とも言われたオカダから「僕と同じ時代じゃなくて良かった」と言われたことに激怒していた。「どうなっても知りませんよ」とオカダに返され、さらに怒りが爆発した。天龍は当時のことを振り返り「本来ならオカダと試合することなどなかった。たった一言だったけど、我慢できなかった。辞めていくにあたり、過敏になっていたのかな」と話す。

試合はドロップキックを顔面に受け、何度もマットにはいつくばりながら、グーパンチ、逆水平チョップ、頭突きで反撃。やられても、必死の形相で立ち上がり、技を受けた。パワーボムを食らわせ、練習で成功しなかった技も決めるなど、死力を尽くしたが、最後はレインメーカーで3カウントを取られ、引導を渡された。試合後には「悔しい」と話したが、後に「彼とやることによって、昭和で切れるはずだったのに、平成のプロレスとつながった。新しいプロレスを体験させてくれた」と明かした。

5年後の20年11月「引退5周年記念大会」でオカダとトークショーを行い、リング上で“再戦”。巧みな話術でかわされ、またも“敗れた”が、2人とも終始笑顔で当時を振り返った。オカダに「天龍さんに熱くなってもらおうと、普段使わない技も出した。最高の試合だったし、お互い全盛期の時にやりたかった」と言葉をかけられ「新日のエースとして責任を持って行動してほしいし、業界全体を引っ張っていってほしい」とエールを送った。

今でも「勝っても負けても悔いはなかった」。反骨の昭和のプロレスを見せた天龍が最後に、昭和のプロレスを体感し、リングを去った。現在は天龍プロジェクトで若手育成に尽力する。お世話になったプロレス界へ最後の恩返しとして、体が動く限り、活動を続けている。(つづく=第8回はプロレス人生の集大成)

 

◆天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう) 本名・嶋田源一郎。1950年(昭25)2月2日、福井・勝山市生まれ。63年12月に13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門。64年初場所で初土俵を踏み、73年初場所で新入幕。幕内通算108勝132敗、最高位は前頭筆頭。76年10月に全日本入り。90年に離脱し、SWSに移籍。WARを経てフリーに。WJ、新日本、ノア、ハッスルなどにも参戦した。10年に天龍プロジェクト設立。15年11月に現役引退。獲得タイトルは、3冠ヘビー級、世界タッグ、IWGPヘビー級など多数。得意技はDDT、ラリアット、グーパンチなど。