東前頭筆頭の琴勇輝(24=佐渡ケ嶽)が、涙の初金星を挙げた。日馬富士を一方的に押し出して、初めて横綱を破った。13年九州場所で力士生命を左右する左膝の大けがを負いながら1歩ずつ上り詰め、自己最高位に就いた今場所。綱とりに挑む兄弟子、大関琴奨菊への援護射撃となったと同時に、センバツ高校野球に初出場する母校小豆島高へのエールになった。残る2横綱と4大関は安泰だった。

 眉間に力を入れて、目をきつく閉じた。こらえなければ。そう思うほど、涙がとめどなくあふれた。「つらくて悔しくて泣いたことは何回もありましたが、うれしくて泣いたことは数えるほどしかない」。初金星に、琴勇輝が男泣きした。

 この日の大相撲中継で先代師匠の元横綱琴桜が特集されていた。「猛牛」と呼ばれた、のど輪で一気に走る姿を支度部屋で見た。自分が目指していた相撲を直前で目の当たりにして「ふわっとなった。こういう相撲を取ろうと思えた」。その意識が、日馬富士を押し飛ばした。「信じられない」。無理もなかった。あの悪夢を思い起こせば。

 13年九州場所6日目。左膝蓋腱(しつがいけん)を断裂し、前十字靱帯(じんたい)を損傷した。11月末に都内で手術。直前、医者に「もう相撲は無理かもしれない」と言われた。術後は立つこともできない。「途方に暮れました」。

 底をついたやる気を、多くの人が「頑張っているのは分かっている。焦るな」と励ましてくれた。「自分以上にあきらめないで待ってくれる人がいた。もう1度、頑張ろうと思えた」。

 初めは立つことも座ることもできない。「泣きながらやりました」。リハビリ室で、一生を懸けて立つ挑戦をしている人に「頑張って」と励まされる。弱音は吐けなかった。中庭で自主練し、9階の病室と2階のリハビリ室も非常階段で移動した。「整形外科フロア、みんなが仲間でした」。

 「無謀」とされた2年前の春場所で、師匠に「自分は相撲を取るために生まれてきました。出させてください」と直訴した。もう1度、切れたら引退。その覚悟で臨んだ十両で7勝した。気持ちの強さは最大の武器に変わった。以後11場所で負け越しは1度だけ。1歩ずつ階段を上るように、自己最高位に上り詰めた。

 多くの支えでつかんだ初金星で大関を援護した。それは甲子園に来た母校にも-。「部員の背中を押してあげたかな」。強い勇気を、見せた。【今村健人】

<琴勇輝一巌 ことゆうきかずよし> 

 ◆本名 榎本勇起。1991年(平3)4月2日、香川県小豆島町生まれ。08年春場所初土俵。176センチ、176キロ。家族は母と弟。血液型B。

 ◆きっかけ 小学校まで香川・丸亀市で育ち、小4で相撲を始める。中学は相撲部がある小豆島町に引っ越し。中3では生徒会長も務めた。小豆島高1年の高校総体団体で16強。国体では香川県勢初の8強入り。九州場所で佐渡ケ嶽部屋を見学し、入門を決めて同校を1年で中退した。

 ◆ルーティン 三段目時代から気合を入れる動作として、最後の仕切り前に「ホウッ」と叫ぶ。「意識的な受け狙いのパフォーマンスでなく自分の中のリズム、あくまでも気合」という。昨年春場所前の力士会では白鵬から厳しい言葉で注意を受け、物議を醸したが、今も変わらず続ける。