1970年(昭45)1月の横綱昇進を機に、玉乃島は「玉の海」に改名した。「の」の違いがあるが、師匠の片男波(元関脇玉乃海)、師匠の師匠だった先代二所ノ関(元関脇玉ノ海)の名を継いだ。周囲は定着した「玉乃島」の改名に反対。「たまのうみ」が、関脇止まりだったこともあった。

「初代」で、NHK相撲解説者だった玉ノ海梅吉(退職後「玉の海」に改名)も了承しなかった。玉ノ海は大関昇進直後に立ち合いの不安を打ち明け、人生相談もする「父親」だった。大雨のある日、玉の海は関西にある玉ノ海の自宅を訪れる。「本当の相談ができる人の名が欲しいのです」と頭を下げた。誠意を尽くし、ようやく「横綱玉の海」が生まれた。

土俵入りは史上4人目の「不知火型」だった。当初は二所ノ関一門の先輩大鵬と同じ「雲竜型」を望んだが、片男波の「横綱3人なら、違った型の方がファンサービスになる」の言葉で決めた。吉葉山以来12年ぶり。二子山部屋の小柄な二子岳と貴ノ花を従える土俵入りは、大柄で武骨な不知火型のイメージを変え「ニュータイプ不知火」と好評だった。

土俵入りを教えた元横綱大鵬の納谷幸喜「しこもせり上がりも立派だった。土俵入りというのは呼吸を止めたり、肩の力を入れたり、目の位置も難しいんだ。『相撲を2番取るようなもの』とは、よく言ったもの。でも、彼は横綱になってからの方が強かったね」

このころ、玉の海の相撲は完成に近づいていた。6年前の新入幕時に100キロだった体重は、130キロを突破。胴長で肩幅が広く、持ち前の足腰の強さもあった。上半身の弱さは「てっぽう1000回」で克服。立ち合いで右を差して組み止め、左で上手をつかんで脇を締める。胸の合わせ方も文句のない右四つは、高見山ら巨漢力士とがっぷりになっても負けない「正統派」だった。盤石の取り口は、同じ右四つということから「双葉山2世」の声も出始めていた。

横綱初優勝は、昇進4場所目の70年秋場所だった。初日から初の13連勝。14日目も大鵬にスキを与えず、外掛けで崩してから寄り切った。ライバル北の富士の3連覇を阻み、千秋楽前に通算3度目の優勝を決めた。無傷14連勝した九州場所は千秋楽で大鵬に寄り切られたが、決定戦で大鵬を破り、初の連覇を果たした。

翌71年初場所も順調に初日から14連勝。全勝優勝へ壁となったのは、またも大鵬だった。本割で敗れた後、異例の「水入り」となった決定戦でも寄り切られた。大鵬の最後となる32度目の優勝だった。

大鵬「初場所で負けたら、彼に全勝優勝と3連覇を許すことになった。まだ『玉の海時代』にするわけにはいかない、そんな気持ちだった。それまでは決定戦は嫌いだったんだけど、あの時は1日2番取る執念で場所に向かった」

5度目の優勝を果たした春場所も、10日目に前の山に敗れて14勝。前年秋場所からの「4場所連続14勝」は、昨年白鵬が初場所から九州場所までの6場所連続で更新するまで、史上最長の安定感だった。

遠かった「全勝V」が実ったのは、ご当所の名古屋場所だった。71年、14連勝で千秋楽前に6度目Vが決定。千秋楽は北の富士との「まわし待った」がかかる2分40秒の熱戦を寄り切って制した。初の15戦全勝。優勝回数も北の富士に並んだ。心技体が充実した玉の海だったが、これが最後の優勝になってしまった。(敬称略=つづく)【近間康隆】

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