いつもは芸能関係の記事を書いているが、今回はサッカーについて書かせていただく。

というのも、FIFAワールドカップ2026開幕まで、あと1カ月半。初めてW杯(1970年)の映像を見て以来、もう半世紀が過ぎた。当時と今ではサッカーそのものが大きく変化。思いつくことをあれやこれや書き留めておきたい。

70年大会はメキシコで開催され、ペレが率いるブラジルが3度目のW杯優勝を飾った。個人技の南米VS組織力のヨーロッパ、と言われた時代。テクニシャンぞろいのブラジルにあってペレは王様と呼ばれる特別な存在だった。一方で、西ドイツにはウーベ・ゼーラー、イングランドにはボビー・チャールトンという絶対的なエースがいた。同じ頃、日本代表にも釜本という傑出したストライカーがいたものの、W杯出場には届いていない。

現代の目で見れば、当時のサッカーにはスペースも時間も、ゆったりしていたのが事実。

サッカーにおける革命が起こったのは次の1974年西ドイツ大会だった。主人公はオランダ代表。主将ヨハン・クライフとミケルス監督が体現したトータルフットボールの登場だ。前線でのタックル、ディフェンダーが自在に駆け上がり、それまでのポジションの概念を覆した。そして猛烈なオフサイドトラップ。相手選手が4人5人と、そのわなにかかっていた。

74年以後、前線からのプレスやFWの守備など、今につながるスタイルが各国に広まっていく。GKがバックパスを手でキャッチできないなどのルール変更もあった。

いま思えば、古き良き時代のサッカーであった。岡野俊一郎氏のソフトな解説、金子勝彦氏の名実況が懐かしい。

74年大会の出場国は16だった。アジアとオセアニア合わせて、出場枠はたった1(74年大会のアジア・オセアニア代表はオーストラリア)。当時、高校生だった私は「こりゃ日本がW杯に出るなんて、夢のまた夢だ」と思ったものだ。

77年には奥寺康彦が西ドイツ・1FCケルン入団。ブンデスリーガ優勝を飾り、UEFAチャンピオンズカップ準決勝ではアジアの選手として同大会初ゴールを決めるなど、日本サッカーのパイオニアとなった。

それでも、なおW杯は遠い。メキシコ大会アジア最終予選の対韓国戦(85年)、木村和司の伝説的なフリーキックはあまりにも有名だが、アジアの壁を破れず。メキシコ大会には24カ国が出場。アジア代表はイラクと韓国だった。

しかし、93年のJリーグ発足を経て徐々に地力をつけた日本代表は「ドーハの悲劇」で悔しい思いを味わった後、98年フランス大会(32カ国出場)で、ついにW杯の舞台に。世界の壁にはね返されながら、2022年カタール大会では、ドイツとスペインに勝利するほどになった。

日本は確実に強くなった。三笘、鎌田はイングランドの所属クラブで欠かせない存在となっているし、他の代表メンバーも当然のように欧州で戦っている。かつての「アジア予選さえ勝ち抜けない日本」を見てきた者からすれば夢のようだ。生きているうちに初のW杯ベスト8、ベスト4入りを目撃できれば、こんな幸せなことはない。【三宅敏】(ニッカンスポーツ・コム/コラム「ナニワのベテラン走る~ミナミへキタへ~」)