阪神がオリックスを下し対戦成績4勝3敗で1985年以来2度目の日本一に輝いた。吉田阪神で初の日本一になった38年前の守備走塁コーチで、日刊スポーツ評論家の一枝修平氏(83)が当時を述懐した。

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38年前はリーグ優勝決定から日本シリーズまでそれほど日にちがなく、ナインの気持ちを高めるため「1日合宿」はどうかと吉田監督に申し上げました。同意を得て芦屋の「竹園」で合宿を行い、西武投手陣を分析し、サイン、戦法などを確認しました。

この時「西武は伊東、辻のコンビでセーフティースクイズをやってくる」と言い、バースと木戸には警戒するようアドバイスしました。当時、他の球団はあまりセーフティースクイズに気付いていなかったと思います。第2戦。予備知識のあったバースが辻のこれを完璧に読んで本塁でアウトにし、西武の攻撃の流れを止めます。シリーズで3戦連発と打ちまくったバースですが、大きな守備でした。

チームはシーズン後半から池田親興、ゲイルの調子が上がっていて心強かった。一方、西武はエース郭泰源の故障で台所事情は苦しかったと思います。第1戦で左の主力、バース、掛布、指名打者の長崎に対してアンダースローの高橋直樹では楽な戦いになりました。郭泰源が故障のため、抑えの東尾の出番も自然と少なくなりましたね。

第4戦で9回にリリーフした福間が西武の左キラー西岡に本塁打を打たれて敗れ、第5戦は池田の調子がいまひとつで4回途中から再び福間がリリーフします。敬遠で1死満塁となって、西武は前日に福間から本塁打を打っていた西岡を代打に。みんな覚悟したと思いましたが、福間は粘ってアウトコースに落ちるシュートを打たせてショートゴロ。ダブルプレーでこの試合に勝ったのは大きかったです。

日本一を決めた第6戦は1回表に指名打者の長崎がライナーで右翼スタンドへ満塁ホームラン。強烈なアゲンストの風で最後はスタンドに刺さるのではなくポトンと落ちる感じだったのを覚えています。

この年のチームは山本和行と中西清起の2枚ストッパーでしたが、9月の中日戦の試合前練習中に山本がアキレス腱(けん)を断裂。これによって抑えは中西一本になりましたが、日本シリーズ3勝2敗で西武球場に向かうとき、吉田監督は胴上げとビールかけに参加させるため山本を帯同させましたね。

西武球場で優勝して、チームはその足で立川競輪場でビールかけ。宿舎に帰ると各人が都内へ出かけ、結局宿舎に残ったのは広報の本間と僕だけで…。新幹線で新大阪に着いた時は警備員がおらずもみくちゃになり、バスに乗り込むまで大変だったのを覚えています。

38年前は大人のチームで、選手の気持ちは川藤が把握してまとまっていました。今のチームは若くて実力があります。85年のように1年で終わるようなことはないでしょう。ドラフトも即戦力でなくても育成時間が十分取れ、戦力に育って1軍に上がってくるでしょう。岡田監督がやる限り「阪神王国」が続くと思います。(日刊スポーツ評論家)