ガンバ大阪の元日本代表MF遠藤保仁(40)が、23日の横浜F・マリノス戦でJ1最多出場記録に並ぶ631試合に到達した。06~09年にG大阪を担当した北村泰彦記者が、遠藤の五輪への思いを振り返る。

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私がG大阪を担当していた08年は、遠藤にとってまさに激動の1年だった。北京五輪のオーバーエージ(OA)枠選出が内定していた7月初旬。発熱で数日間、練習や試合を休んだ。おかしい。不吉な予感は的中した。高熱が下がらず入院。病名は「ウイルス感染症」だった。複数の器官にウイルスが入り込んでいた。

00年シドニー五輪で補欠登録に終わり、五輪出場には人一倍強い思いを持っていた。OA選出を巡っては神戸FW大久保(現東京V)ら主力の離脱を嫌うクラブが多いなか、G大阪は当時の西野監督らが遠藤の夢を後押ししていた。約1カ月後の五輪開幕を目前にしてのまさかの事態。取材で聞こえてくる深刻な病状に、記者としても無念の思いで「五輪絶望」の原稿を書いた。その5日後、クラブは選出辞退を発表した。

ただ、8月の復帰後の遠藤はすごみを増していった。G大阪をACL優勝へ導き、12月のクラブW杯でもマンチェスターU相手に得点するなど世界3位に貢献。あこがれの五輪への夢を絶たれながら鮮やかな復活。不屈の男の神髄を見た1年でもあった。