今年はサッカー2002年W杯日韓大会の開幕20周年となる。日刊スポーツでは「2002年W杯 20年後の証言」と題して、当時のキーマンたちが語る秘話などを連載。第3回は日本招致委員会事務局長で、大会組織委員会事務総長代理だった元日本協会(JFA)会長の小倉純二氏(83)。

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「日本でW杯を」は夢物語だった。平成唯一にして最大のスポーツイベント、ワールドカップ(W杯)開催への準備が始まったのは1980年代後半、昭和の終盤だった。日本招致委員会事務局長として招致に尽力し、大会組織委員会事務総長代理として運営を仕切った小倉氏が、大会の裏側を振り返る。

小倉 きっかけは、86年W杯メキシコ大会時の国際サッカー連盟(FIFA)アベランジェ会長の「21世紀最初の大会はアジアかアフリカで」という発言。もちろん、日本は検討に入ったが、ハードルは高かった。特に大会基準に合うスタジアムの不足と日本代表の競技力が課題だった。

当時FIFAが求めていたのは、4万人以上収容の12会場。うち開幕戦と準決勝、決勝は収容6万人以上が条件だった。ところが、当時条件を満たしていたのは国立と神戸だけ。スタジアムの新設には莫大(ばくだい)な経費もかかる。それでも、92年には15もの自治体が開催地として名乗りをあげた。

小倉 まだバブルの余韻が残っていて、自治体も元気だった。Jリーグ発足を前に、サッカーにも勢いがあった。「国体用の施設を前倒しで準備します」と言ってくれた自治体もあった。決勝会場候補だった東京がないのは残念だが、横浜市が引き受けてくれた。

招致活動には89億円という多額の費用がかかった。JFAに金銭的な余裕はなかった。4割近くの39億円あまりが各自治体から集めた資金。Jリーグの入場料に一律100円上乗せした協力金が33億円、残りはスポンサー料などで賄った。

小倉 Jリーグの人気に助けられた。チケットが売れるから、協力金も集まった。リーグから寄付もしてもらった。大会招致は、Jリーグがなければ、もたなかった。

順風満帆だった招致活動に、突然横やりが入った。韓国の立候補。ここで、スタジアムとともに不安視していた日本代表の競技力が問題になる。過去、出場経験のない国でW杯が開催されたことはなかった。小倉氏の不安は現実になった。

小倉 韓国は「日本はW杯に出ていないが、我々は連続出場している」とアピールした。もし、94年の米国大会に日本が出ていたら、韓国は立候補していなかったかも。「ドーハの悲劇」は招致にも影響を与えた。

最終的に、日本と韓国は「痛み分け」となり、共催が決まる。実務面を仕切っていた小倉氏の苦労は倍増した。単独開催で準備してきたものを共催に変更。まずは、開催地の削減だった。

小倉 そこまで一緒に頑張ってきた15の開催自治体を10に減らす必要があった。5つを切るのはつらかった。提供してもらった招致活動費の返還もあった。各自治体2億3500万円。「返さなくていい」と言ってくれた自治体もあったが、返した。ただ、余裕のある資金はないから5年の分割にしてもらった。

チケット問題など大会本番でも課題になったことはあったが、アジア初のW杯は大成功に終わった。10の開催地にはすべてJクラブが誕生。Jリーグでブームになったサッカーが、日本に定着した、W杯を契機に、日本のスポーツが変わった。

小倉 日本が初めて経験した国をあげての大会だった。開催地、キャンプ場を含め全国にサッカー場ができた。FIFAをはじめ世界のスポーツ界の日本を見る目も変わった。決勝会場の横浜スタジアムは19年ラグビーW杯でも決勝会場となった。大変なことは多かったけれど、20年たって本当にやってよかったと思っている。【荻島弘一】

 

◆小倉純二(おぐら・じゅんじ)1938年(昭13)8月14日、東京都生まれ。都立西高ー早大を経て62年に古河電工入社。競技経験はなかったが、サッカー部の運営を手伝い、81年からの同社ロンドン支社時代は日本サッカー協会国際委員として活躍。その後も実務面で日本サッカー界を支え、日本協会専務理事、アジア連盟(AFC)理事、FIFA理事などを歴任し、10~12年に日本協会会長を務めた。

 

○…セレッソ大阪のエースだった森島寛晃氏は、今は50歳となり、同クラブの社長就任4年目に入った。トルシエ氏のことを「人生を変えてもらった監督」と感謝するのは、6月14日の1次リーグ第3戦チュニジア戦。ホーム長居で先制ゴールを決め、日本の初の決勝トーナメント進出を決定付けた。

「よく右足で巻いて打ったと言われるが、そんな技術があったら、Jリーグで200点(実際はJ1で94得点)は取っている。ふかさないよう、逆サイドに抑えて蹴ろうとしただけ」

出番からわずか3分後の値千金弾。後日、トルシエ氏が「日本の運命を変えたゴール」と評した。サポーターからは日本記念日協会に申請され、6・14は「モリシの日」に14年から認定・登録された。

「大事な試合の前になると、よく切れた。後で聞けば、通訳と事前に切れる練習をしていたそうです。空気をピリッとさせようとしたんですね。最後の方は、いつ切れるか分かってきて、選手は『集中しろ、そろそろ切れるぞ』って、警戒していた」

試合後はホテルのバーでの飲酒を、状況に応じて外出も許された。4年前は再来日したトルシエ氏が突然、C大阪の試合を観戦に訪れた。会場は長居で「覚えてるぞ、森島がここでゴールしたのを」と言い、自身が生産するボルドー産ワインを贈られた。「選手のモチベーションを、うまく操る人。最後まで、いろいろ驚かせられました」。恩人への感謝は忘れない。【横田和幸】

 

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