色あせぬ煌めき

88年“ブライアン対決”平松純子審判が貫いた信念

日本のフィギュアスケーターや指導者、スケート界の発展に尽力した功労者が、心を動かされた演技を振り返る連載「色あせぬ煌(きら)めき」。第5回は国際スケート連盟(ISU)名誉委員を務める平松純子さん(77)。現役時代に2度の五輪出場を果たし、引退後に進んだ審判の道。初めて五輪の審判を務めた88年カルガリー五輪で、男子は金メダルを獲得したブライアン・ボイタノ(56=米国)と、銀メダルのブライアン・オーサー(58=カナダ)による“ブライアン対決”が繰り広げられた。

ブライアン・オーサー・コーチと抱き合う羽生結弦(中央左)(2018年2月16日撮影)
ブライアン・オーサー・コーチと抱き合う羽生結弦(中央左)(2018年2月16日撮影)

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88年2月20日、カナダ・カルガリー。男子フリーの演技を終えたオーサーが、顔の前で両手を合わせた。拳を握り、総立ちの地元ファンの大歓声に包まれた。

ライバルのボイタノは先に演技を終えていた。当時は順位点が用いられており、コンパルソリー(規定)とショートプログラム(SP)を終え、フリーでトップに立った方が金メダルをつかむ状況だった。開催国カナダは、ここまで金メダル0個。前年の世界選手権で初優勝した、オーサーに懸かる期待は大きかった。

その時、平松は審判席にいた。9人の審判の1人として、技術点と芸術点を6点満点で採点していた。

「会場の盛り上がりの記憶はあまりなく、とにかく目の前の演技に集中していました。ジャッジとしての信念を貫いて、自分が見たままの得点を付けました。私は疑いなく、ボイタノでした」

平松はボイタノに技術点5・8点、芸術点5・9点。オーサーに技術点5・8点、芸術点5・8点をつけた。合計点でボイタノが優勢と評価した。9人の審判のうち、平松を含む3人がボイタノ、他の4人がオーサーに高い得点をつけた。残りの2人は両者に同じ得点。しかし、当時は同点の場合は「技術点」が高い方の選手を評価するルールだった。2人は共に技術点でボイタノを優勢としており、ボイタノが5人、オーサーが4人。わずかに審判1人の差で、ボイタノの金メダルが決まった。

「今(の採点方式)と比べて、ジャッジ1人1人の責任が大きかったです。もちろん、オーサーを上につけていた人もいました。ジャッジ1人で、選手の人生が変わる。私も現役時代に採点で悔しい思いをしたので、選手に対して『絶対に公平に、冷静に判定する』と誓っていました」

驚きがあった。夫の転勤により、85年4月から2度目の米ニューヨーク暮らし。五輪1カ月前の88年1月、デンバーで行われた全米選手権へ足を運んだ。大会4連覇を果たし、五輪に弾みをつけたのがボイタノだった。84年のサラエボ五輪で5位に入り、86年に世界選手権優勝。すでに地位を築いていたが、平松は「元々はコンパルソリーが苦手で、技術力はあるけれど、表現は少し機械的に感じる部分がありました」。そんな印象が大きく変わった。

「全米の時に『あぁ、うまくなっている…』と思ったんです。技術、選曲、振り付け、コスチューム…。それが五輪シーズンになり、ピタッと一致しました」

紺の衣装で演じたナポレオン。五輪フリーで跳んだ3回転ルッツは、空中で片手を挙げ、音と完璧に合わせた大技だった。変化する曲想とともに、両脚の付け根から180度開く「イーグル」で、渦を巻くように回りながら壮大な世界観を作り上げた。

「曲と動きがぴったりと解け合っていました。当時はレベルの判定はありませんでしたが、ステップも効果的に組み込んでいました。それを引き出した周りの人たちもすごいと思います。1つの作品を作り上げる、チームとしての力を感じました」

もう1人の主役、オーサーにも芸術点で満点の6・0点をつけた審判がいた。平松は「ステッピングアウトが残念でした」と3回転フリップの着氷乱れを惜しんだが「地元開催の重圧がある中で、本当にスムーズで、リズミカルな演技でした」。その鮮烈な印象は色あせない。

オーサーは2大会連続の銀メダルとなり、カナダは76年のモントリオール夏季五輪に続き、自国開催で金メダルなしに終わった。このシーズン限りで引退し、以降は振付師、コーチで第2の人生を歩んだ。教え子の金妍児(韓国)を10年バンクーバー五輪金メダルへ導き、羽生結弦(ANA)は五輪2連覇。名コーチとなったオーサーを、平松はISU技術委員、理事といった立場から見つめてきた。

「これは私の想像ですが、彼がこれだけのコーチになったのも、あの時の“ブライアン対決”の結果が大きいかもしれません」

32年前の記憶と重ね合わせると、こうも言い切った。

「ジャッジとしては、今も『信念を貫けた』と思っています」

02年ソルトレークシティー五輪を契機に、平松も尽力した新たな採点方法が採用された。審判の役割や評価の付け方が細分化され「相対評価」は「絶対評価」へと変わった。カルガリーの名勝負は、2人のブライアンによる好演技と、当時の採点法が生んだドラマだった。(敬称略)【松本航】

◆平松純子(ひらまつ・じゅんこ)旧姓上野。1942年(昭17)11月1日、兵庫・西宮市生まれ。小4でスケートを始め、全日本選手権は56年からの4連覇を含む5度の優勝。60年スコーバレー五輪では日本女子選手初の旗手を務め、64年インスブルック五輪と2大会に出場。引退後は国際審判員として活躍し、98年長野五輪では審判員宣誓を行った。国際スケート連盟理事、日本オリンピック委員会(JOC)理事などを歴任。17年に旭日小綬章を受章。

◆ブライアン・オーサー 1961年12月18日、カナダ・オンタリオ州生まれ。84年サラエボ大会で五輪史上初めてトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を成功させ、銀メダル。87年に世界選手権で初優勝。88年のカルガリー五輪で2大会連続銀メダル。引退後は振付師、コーチとして活躍し、10年バンクーバー五輪では金妍児、14年ソチ、18年平昌五輪では羽生結弦を金メダル獲得に導いた。09年に世界殿堂入り。

◆ブライアン・ボイタノ 1963年10月22日、米カリフォルニア州出身。85~88年まで全米選手権4連覇。初めての出場となった84年サラエボ五輪で5位、88年カルガリー五輪金メダル。同年の世界選手権でも“ブライアン対決”を制して2度目の優勝を果たし、プロ転向。89年にはテレビ映画「氷上のカルメン」にオーサー、カタリナ・ビットらと出演し、エミー賞受賞。プロ解禁のため出場した94年リレハンメル五輪6位。96年に世界殿堂入り。

88年2月、「ブライアン対決」となったカルガリー五輪フィギュアスケート男子シングルで優勝したブライアン・ボイタノ(中央)と銀メダルのブライアン・オーサー(左)は表彰台で声援に応える。右は銅メダルのヴィクトール・ペトレンコ(ゲッティ=共同)
88年2月、「ブライアン対決」となったカルガリー五輪フィギュアスケート男子シングルで優勝したブライアン・ボイタノ(中央)と銀メダルのブライアン・オーサー(左)は表彰台で声援に応える。右は銅メダルのヴィクトール・ペトレンコ(ゲッティ=共同)

日本の歴史を刻んできたフィギュアスケーターや指導者が、過去に最も心を動かされた演技を振り返る連載です。名選手、名コーチ、競技発展に尽力してきた功労者の今なお色あせぬ記憶を通じて、氷上の煌めきをファンの皆さまと共有できればと思います。

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