吉本芸人がネタ動画 見よ!島木譲二さんの「弟」タックルながい。魂のパチパチパンチ

総勢6000人にも及ぶ所属タレント、芸人を抱える吉本興業。日刊スポーツ・プレミアムでは、毎週木曜日を「吉本の日」とし、企画インタビューを掲載。売り出し中の芸人には約3分の自己PR動画も同時アップ。時にはネタを入れ「こんだけおもろいで!」とアピールしてもらいます。

「え? 島木さん、亡くなったんちがうの?」。タックルながい。のパチパチパンチは客席もざわつくほど本家そっくり。復活した大阪名物を動画でお楽しみください。

おもろいで!吉本芸人

三宅敏

吉本新喜劇の座員「タックルながい。」は48歳。26歳で吉本の門をたたき、舞台の進行係を務めた後、新喜劇に入団した苦労人。芸人として華やかなキャリアはないが、かつては花園ラグビー場や関東大学リーグ戦を駆け巡った筋金入りのラガー。今回、間寛平ゼネラルマネジャー(GM)の命を受けて、新境地に挑戦している。体を張って全力で客席にアピール中。今のうちに彼の名前を覚えておいて損はない。

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大阪名物「パチパチパンチ」が復活した。かつて吉本新喜劇で活躍した島木譲二さん(16年死去)の人気ギャグだ。上半身裸になって、自分の体をバチバチたたく芸で、広く愛された。その派生芸となった灰皿で自身の頭をたたく「ポコポコヘッド」ともども、弟分としてタックルながい。が受け継ぐことになった。

お披露目されたのは4月30日、大阪・岸和田での新喜劇公演だった。この日、舞台に出演していた間寛平や川畑泰史から、促されるようにパチパチパンチを熱演。胸が真っ赤に変色するほどにたたきまくった。

「え? 島木さん、亡くなったんちがうの?」

客席はざわついた。丸っこい体形にイガグリ頭は本人そっくり。勘違いされても仕方ない。寛平GMから「お前、島木か?」と問われ「弟ですねん」とタックル。観客は納得し大笑いとなった。「お前の兄貴はもっと早かった。もっと激しく!」と周囲にけしかけられ、さらにエスカレート。6年ぶり大阪名物を岸和田のファンはたんのうした。

タックル 舞台での僕は余裕がなくて、ただ必死でした。新喜劇でも誰かのギャグを後輩が受け継ぐなんて、今までなかったことですし。大好きな先輩の看板を背負うのは、大変なプレッシャーです。

生前の島木さんには仲良くしてもらった。興国高時代のけがから野球をあきらめ、プロボクサーとしてもデビューしたが、芸人に転身した島木さんと、ラグビー経験も熱いタックルには、縁もある。懐かしい思い出は、2人で劇場近くのビアホールに行ったときのこと。入店するなり、島木さんが「生ビールを11杯!」と注文した。

タックル 11杯って、僕ら以外に誰かが来られるのかと思いましたよ。島木さんは「誰も来えへんよ」と言って、運ばれてきたジョッキをいきなり、1杯2杯3杯…。一気に飲み干して「この店な、注文してから運ばれるまで時間かかることがあるねん。そやから頼むときは、まとめてやらなあかんねん」ちゅうて笑ってました。

今回、パチパチパンチを引き継ぐことになったが、以前からアドバイスされていたのは「舞台に出たら思いっ切りやりなはれ」というフルスイングのすすめ。役柄はコワモテが多かったが、実際の島木さんは愛されキャラで、町中で「あっ島木や!」と声を掛けられたら、自ら歩み寄って「写真撮りまひょか?」と笑顔を振りまいた。

タックル 少し前に島木さんの奥さまにお会いして、仏前で「パチパチパンチをやらせてもらいます」と報告しました。奥さまも喜んでくださって「ぜひ、やってください」と後押ししてくださいました。

◆タックルながい。 本名・長位章充(ながい・あきよし)。1973年(昭48)10月16日、兵庫県西宮市生まれ。報徳学園でラグビーを始め、花園出場。法政大進学後も大学選手権4強など、選手として注目される。ポジションはプロップ。社会人ラグビーも4年経験。選手時代は体重100キロを超えていた。26歳のとき雑誌「マンスリーよしもと」で「NGK進行係」の仕事を見つけ応募。進行係を務めつつ、新喜劇入団オーディションのチャンスをつかむ。あこがれの師匠は島田一の介。身長176センチ、体重90キロ。

中途半端でなくフルスイングで-。その“島木スピリット”を、舞台そでで目撃したことがある。島木さんが新喜劇に出演していたときのこと。共演の石田靖からはやしたてられ、水晶玉を頭上1メートルにほうり投げ、頭で受けることになった。固くて重い水晶玉。まともに当たったら大惨事となる。

タックル あとで聞いたら「ぎりぎりのところで水晶玉を避けるつもりだったけど、舞台の照明が目に入って、気づいたら脳天に直撃してた」と島木さん、言ってました。頭から血がぴゅーっと出て、もう大変でした。ものすごく痛いはずなのに、それでもぐっと踏ん張って立っていたからすごいです。

島木譲二の弟で行け-。

このアイデアは寛平GMが大プッシュ。「新喜劇からスターを出さんとあかん。藤井隆や島木譲二も最初はワケのわからんヤツやったけど、おもろい部分を前面に出していくことで人気者になったんや」がGMの持論。タックルもその期待を背負うことになった。

これから注目される若手…といっても、実際は48歳。新喜劇入りするまで遠回りしていたからだ。

報徳学園から法政大。とにかくラグビー一筋の青春だった。ポジションは最前列でスクラムを組むプロップ。背番号1。高校時代は花園に出場し、法政大では全国大学選手権4強。バリバリのラガーだった。

タックル 練習はきつかった。水は飲めない、先輩の命令は絶対。ボールにツバをつけて磨く、そんな時代でした。プロップというポジションは縁の下の力持ちなんですが、僕はやみくもにモールやラックに突っ込むだけでなく、次の展開を考えてました。相手チームのポジションを見ながら、密集から離れたところにいた方がチャンスだと思えば、わざと離れました。チャンスがあればトライを狙ってました。公式戦でトライが取れなかったのは残念ですが。

まさにラグビー漬けの日々。だが、その裏では「ラグビーを辞めたら吉本に行こう」とひそかに考えていた。小学生のころから土曜の午後といえば吉本新喜劇。若かりし寛平GMが繰り出す「かい~の」「血ぃ吸うたろか」などのギャグに笑いころげた。

もちろん、島木さんのパチパチパンチの洗礼も受けた。高校卒業時にNSC(吉本総合芸能学院)入学を考えたが、法政大から誘われて「ラグビーは今しかできない」と大学へ。大学卒業時には社会人(本田技研)から勧誘された。

社会人ラグビーを1年やって、母親に「会社を辞めて吉本に行きたい」と相談したところ「今辞めたら、報徳学園や法政大の後輩に迷惑がかかる」と反対された。結局社会人で4年。「会社もう辞めたわ」と母親には事後報告となった。

タックル このとき26歳でした。吉本入りはもう遅いかなと思いましたが、何もやらずに後悔するより、まず挑戦だという気持ちでした。とはいえ、NSC入学は25歳までと年齢制限があったし、どうしようかと。迷ううちにNGK(なんばグランド花月)の進行係を募集していると知って、すぐ決断しました。

ようやく念願の吉本へ。アルバイトをしながら進行係を務めるうち、新喜劇のオーディションが行われ、チャンスをつかんだ。遠回りを重ねた遅咲きの男に、さらに大きな出会い。吉本の先輩、ケツカッチン和泉修の仲介で、日本ラグビー界のスター平尾誠二さん(16年死去)と対面した。

タックル ラグビーをしていた僕から見ても、雲の上の人。ラグビーに興味のない人にも知られている有名な方ですから。僕の顔を見て「お! 見たことあるわ」と言ってくださって。笑顔がかっこええし、スーツが似合っているし、ヒゲがまたダンディーやし。大学、社会人と一生懸命ラグビーやっててよかったですわ。和泉修さんが「芸能界で頑張っていくんやけど、ここまで(花園出場、大学選手権4強)やったラグビー選手もなかなかおらんし、平尾から名前を付けてやってくれないか」と頼んでくださって。

ミスター・ラグビーの命名で「タックルながい。」が誕生した。タックルはラグビーの華。バシッと決まれば、攻守が一気に逆転するうえ、味方のムードが「いけるぞ!」「チャンスだ!」と高揚する。

タックル まだ僕はろくにタックルを決められていなし、ノックオンばかりの身です。でも寛平GMはじめ、多数の先輩方、島木さん、平尾さんらの期待を裏切らないよう前進していきたいです。

インタビューで話すタックルながい。※撮影時のみマスクを外しています※(撮影・上山淳一)

インタビューで話すタックルながい。※撮影時のみマスクを外しています※(撮影・上山淳一)

パチパチパンチは上半身裸になって演じる。体を引き締めるため、2カ月前からトレーニングを始めた。腕立て伏せ、腹筋、背筋。徐々に回数を増やしている。体を動かすのは好きで、チャンバラトリオの山根伸介さん(15年死去)の弟子でもある新喜劇座員、平山昌雄と組み、チャンバライベントも行っている。

ABCテレビで放送されていた「クイズ!紳助くん」(93年~11年)の番組内企画「なにわ突撃隊」のメンバーでもあった。今のテレビでは実現不可能な過酷ロケにも挑戦した。ラグビーを辞めて6、7年たったころ、社会人ラグビーの夏合宿に参加したり、ニュージーランドで有名な恐怖のバンジージャンプをやらされたり、と体力・精神力の限界に挑んだ。

新喜劇の世界では、まだまだこれからの存在。ラグビーで鍛えた体力・精神力を武器に、新たなチャレンジを続けていく。