3大会連続出場となった三浦浩(56=東京ビッグサイト)は、127キロを挙げ、5位入賞を果たした16年リオデジャネイロ五輪の自身の記録を1キロ上回り、9位で大会を終えた。

「ありがとーー!」。最終3回目の試技を終えて、車いすに乗ると、舞台のセンターでマスク越しに叫んだ。「緊張感もあるなかで成功できた」と127キロを挙げきった。「歌手の方がアカペラでやりますよね。生声でやりたかったんです」。今日は自分が「主役」だった。

黒子が生きがいだった。ギター少年はステージで輝く歌手に憧れてきたが、1つの出合いが人生を変えた。中学時代、東京・渋谷のデビューアルバム記念ライブでファンになったのが長渕剛だった。ライブスタッフになりたくて、20歳で脱サラ。何組かのアーティストのスタッフを経て、25歳から長渕の元で働いた。他の歌手にもついて、コンサートを成功させる裏方に命をかけてきた。だから、「国際フォーラムは死ぬほど通った場所でした」。

37歳の時だった。他のアーティストの愛媛公演搬出作業中、400キロのフォークリフトが倒れ、脊髄を損傷。その夜のうちに、もう下半身が動かないことを告げられた。妻と子どもが2人いる。入院生活が1カ月になり、歩けなくてもできるスタッフの仕事はないかと考えていると、電話が入った。「東京に戻ってこないか。病院は手配するから」。長渕の声だった。以降もスタッフとして支えた。

04年アテネ大会のパワーリフティングの映像が目に留まり、競技を始めた。当時41歳、年齢を言い訳にせず、記録を伸ばし続け、この日が3度目のパラリンピックだった。大会前には長渕に「一生懸命やってきます」と伝え、前夜は「昭和」などの愛する曲を聞きながら、士気を高めた。

「気持ち良かったですね。こんな雰囲気で言っているんだなあ」。生声を響かせて、黒子は主役の気持ちを味わった。「スポーツ選手じゃないと立てないですよね。そういううれしさと、照れくささもありました」と破顔した。

現役生活はまだまだ続く。「今大会も最年長だと思うんですけど、いろいろな国の選手から『お前また来てんのか』と言わせたい」と、28年ロサンゼルス大会まで視野に入れる。「死ぬほど、いまを生きる」とは長渕の言葉の1つ。56歳、主役となったこの日もパワーにいまを生き続ける。【阿部健吾】