日本男子には、国枝の前にもレジェンドがいた。斎田悟司(シグマクシス)。04年アテネ大会で国枝と組み、男子ダブルスで日本に初めて金メダルをもたらした。96年アトランタ大会から日本最多のパラリンピック6大会連続出場を果たし、49歳の現在も現役だ。

93年頃から三重・四日市市役所に勤めながら1人、世界ツアーに挑戦。日本人がほとんど誰もいなかった世界への道を開拓した先駆者だ。今みたいに何でもネットで解決できない時代。「航空券とか宿とか行くのも大変。誰も知らなくて練習相手も探せないと、行っても大変」な世界だった。

斎田が初めて国枝を見たのは90年代後半。国枝が千葉・柏市土(つち)中時代の頃だ。第一印象は「打つのは印象に残っていないが、車いすの動かし方が速かった」。当時から、世界一と定評のある国枝のチェアワーク(車いすの操作)の片りんがあったという。

国枝の動かし方は、斎田によると「無駄がない。最短で球に行け、スピードも速い」。選手にとっての車いすは「座るとすぐに神経が行き渡って足になる」存在だという。そして国枝のは「隅々まで神経が行き渡っている」ということだ。

斎田は「国枝が世界1位でいる大半の理由は、チェアワーク。誰もかなわない」。04年から4大会連続でダブルスを組んだ国枝との名コンビについても「車いすを動かして、相手に的を絞らせないのが武器だった」。その神業で、国枝は再び世界の頂点に立った。