【中庭健介〈下〉】渡辺倫果へ唱え続けた言葉と世界選手権であふれた涙

日刊スポーツ・プレミアムでは、毎週月曜日にフィギュアスケーターのルーツや支える人の信念に迫る「氷現者」をお届けしています。

シリーズ第11弾は指導者編として、中庭健介(41)の来歴を辿ります。2011年に現役引退後、福岡を拠点に指導者としての道を歩み始め、2021年からは千葉県船橋市で「MFアカデミー」のヘッドコーチを務めています。2022-23年シーズンは、渡辺倫果(20=TOKIOインカラミ/法政大)や中井亜美(15=TOKIOインカラミ)らが活躍を見せ、中庭コーチの指導にも注目が集まりました。

全3回の「下編」では、現在の指導スタイルへと至った過程、渡辺にかけ続けてきた言葉を通じ、指導の信念に迫ります(敬称略)。

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世界選手権、渡辺倫果はフリーの演技で笑顔のフィニッシュ。「失敗を許そう」中庭コーチの言葉を胸に冒頭の3回転半の失敗を引きずらずに滑りきった

世界選手権、渡辺倫果はフリーの演技で笑顔のフィニッシュ。「失敗を許そう」中庭コーチの言葉を胸に冒頭の3回転半の失敗を引きずらずに滑りきった

地元福岡で指導者の歩み

2014年。指導者の道を歩み始め、3年がたった頃だった。

拠点としていた福岡県で、コーチ育成のためのプロジェクトが開かれることとなった。

サッカー。ソフトボール。テニス。ウエートリフティング。水球。フェンシング。空手。そして、フィギュアスケート。

異なる8つの競技団体から推薦を受けた指導者が集まり、経験や知識をディスカッションしたり、指導理念を学び合ったりした。

中庭健介は3年にわたって、足を運ぶようになった。

「もちろん、個人としてフィギュアスケートの技術指導を勉強したりするんですが、それよりも、子どもたちとどう関わっていくのか、指導者としての勉強に時間を割くようになっていきました」

そんな折、異競技の指導者との出会いは、心に新たな風を息吹かせた。

当時は30代前半。参加していたクラブチームの指導者や部活動の先生方の中では、最年少だった。

「自分自身も先生という立場になり、どこか悩みを打ち明けることは許されないと感じていました。そこで悩みを共有できる人たちに出会えたことは、とても大きかったです。フィギュアスケート界しか知らない自分にとっては、様々な競技の指導者と一緒に勉強をし、他競技の取り組みや課題なども共有して、これからの指導について考え、学びました」

さらに当時は、部活動における体罰が社会問題化された時代でもあった。勝利至上主義に偏重していたスポーツ界は、変革が迫られていた。

異競技の指導者たちとは「どのようにスポーツ界を発展させていくのか」というテーマで話し合う時間も増えた。

フィギュアスケートはどう発展させていくべきなのか-。

思案するにあたって、思い返すのは過去だった。

中庭コーチ、渡辺倫果ともに初の舞台となった世界選手権

中庭コーチ、渡辺倫果ともに初の舞台となった世界選手権

強いるのではなく、併走するスタイルで

「僕はたまたまスケートを選んだだけで、もしかしたら辞めていた人生があったかもしれなかったので」

かつて自分もそうだった。

15歳ですんなり辞めていれば、今とは別の道を描き出していたはずだ。

「子どもたちの将来にとって、フィギュアがよりよい学びの場になればいいと思うようになりました。フィギュアをやっていた経験が、大学受験で生きたり、就職活動で役立ったりするのであれば、それもいいと思います。僕がそうだったように、子どもの頃の未来は変わっていくので、フィギュアで得たことを他のスポーツや関心に発展していけば、経験はムダにはならないと感じます」

何かを強いる指導は、未来のためにはならない。自分にできることは、子どもたちを受け入れて、一緒に見つめていくことだと思った。

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岐阜県不破郡垂井町出身。2022年4月入社。同年夏の高校野球取材では西東京を担当。同年10月からスポーツ部(野球以外の担当)所属。
中学時代は軟式野球部で“ショート”を守ったが、高校では演劇部という異色の経歴。大学時代に結成したカーリングチームでは“セカンド”を務めるも、ドローショットに難がある。