競輪、楽しんでいますか?
村上義弘が引退を表明した。
残念だ。
個人的にものすごく親しかったというわけではないが、長く記者をやっていれば、いくつかの接点はある。全くもってつれづれながら、思い出をつづってみたい。
村上の印象は「涙」。勝って泣き、負けて泣き、時には怒って泣き、笑って泣き…。いろいろな涙を見てきた。
02年寛仁親王牌(前橋)決勝。ライトアップされたドームの中、赤板から迷いなく先行した村上の姿は今でも目に焼き付いている。結果は師と仰ぐ番手の松本整が優勝し、村上は4着に終わった。もちろん、松本の最年長G1優勝(当時)のすごさが際立つレースだったが、当方には、「ずっとお世話になってきた松本さんとG1の決勝に乗って、勝ってもらったことはうれしい。ただ…」と、自身が表彰台(3着以内)に上がれなかった悔しさが入り交じった涙を流す村上の姿が強烈に印象に残った。
そして、04年高松宮記念杯(今はなき、大津びわこ)決勝。村上は500バンクの打鐘過ぎからの先行争いに勝ち、自身は8着も、ここでも松本に優勝をプレゼントした。直後に松本の突然の引退発表があり、号泣する村上の姿に、こちらまで目頭が熱くなったものだ。
初めて日本選手権(村上は“ダービー”ではなく、この言葉を好む)決勝に乗った02年、決勝メンバーインタビューで見せた少年のような朗らかで誇らしげな笑顔。その後、名実ともに輪界の顔となり、終始「鬼」の表情だった時期、そして気さくに話しかけ、冗談で笑わせてくれるようにもなった近年。さまざまな思い出があるが、いつの時代も村上は「涙」とともにあったような気がする。
数年前、平成最後のGPを前に「平成の競輪といえば村上義弘しかいない」とデスクを説き伏せ、11月の競輪祭終了直後にGP見開き紙面用の取材を申し込んだ。しばらく考えた後「よろしくお願いします。連絡してください」と応えてもらった時の喜びは今でも忘れない。数日後の向日町バンクでの約3時間の取材は、まるで一瞬のことのようだった。
もう時効だろう。その取材の中で「引退したら書きますよ」と話していたエピソードを最後に。
02年立川GPを振り返っていた時のこと。
「あの時は松本さん(9着)がインフルエンザにかかっていたことは結構知られているけど、実は僕も同じ部屋にいてかかっていたんですよ」
そんな体調の中で打鐘から突っ張り先行し、僅差の3着に逃げ粘ったことは驚異的としか言いようがない。
村上義弘、恐るべし。
お疲れさまでした。
【栗田文人】