ロシアとウクライナの戦争が続いている。大人同士、政治家同士の話し合いで解決できず、結局、武力で解決しようとしている。

政治のことを深く語ろうとは思わないが、スポーツの世界において、あの争いはあってはならない。一般市民が犠牲になっているし、多くの子どもたちが命を落としている。今でも恐怖の日々が続いているのだろう。

70年以上も前のことを思い出す。当時、私は10歳前後だった。北海道・函館で生まれ育った。戦争のまっただ中、その頃、毎日のように警戒警報のサイレンが鳴り、空襲警報が鳴る日もあった。外で遊んでいてもサイレンが鳴ると急いで家に帰り、4畳半くらいの広さに深さ2メートル弱の防空壕(ごう)にしゃがんだ。

函館の七重浜には重油のドラム缶が備蓄されていて、米軍機B-29が20~30機で編隊を組んだ空襲が何度もあった。そのためそれぞれの家には防空壕(ごう)があった。大人が掘り、私のような子供は土を運んだりして手伝ったことを覚えている。板で屋根をかぶせる防空壕の中は、暗くて怖かった。恐怖そのものだった。今の時代にウクライナの子どもたちがその恐怖に直面していると思うと、心が痛む。

はじけるような笑顔でサッカーボールを追いかけるはずの子どもたちが、生死の恐怖にさらされている。がむしゃらにボールを追い「相手をどう抜こうか。シュートを打つか、パスを出すか」を考える頭を「どう生き延びるか」で使っている現状は悲しい。サッカーの未来を託されるはずの年代の子どもたちがボールを奪われ、笑顔を強奪されている。

私は大学サッカーに長年関わっているが、少年サッカーにも1971年(昭46)から縁があった。川崎市麻生区に住んでいて、近所の人からは「サッカーの先生」と呼ばれていた。そこで「子どものサッカーチームを指導してほしい」と言われ、快諾し「百合ケ丘子どもサッカークラブ」を設立した。地元小学校のグラウンドを借りて子どもたちを教えた。

最初は十数人。やっていくうちにどんどん増えて、250人以上になった。子どもたちには正確にボールを扱うことを重点的に教えた。正確にボールを止める、蹴る、前へ運ぶ。まだ体ができていない年齢の子に強さを求めてはいけない。正しいボールの蹴り方さえ覚えれば、年齢とともに強さはついてくる。

その指導が良かったのか、設立5年で関東少年サッカー大会において優勝することができた。今はそのクラブから退いているが、私の教え子(もうずいぶん年だけれど)が代表を務めており、現在もクラブは活動を続けている。ワールドカップ(W杯)カタール大会のメンバーにも選ばれたMF久保建英君(レアル・ソシエダード)が小学生の頃、2年ほど所属しており、他にも多くの選手を輩出している。

小学生を教えて、指導者として学ぶものは多かった。子どもの指導は、一から教え込むことが多いため、私と子どもたちの距離が近かった分、観察する機会も多かった。子どものけんかや仲直りの仕方、それぞれの性格などを把握しないと、チームがうまく回らない。自然と名前を覚え、200人以上を名前で呼んで、親たちが驚いたことがあった。

私は「みんな」や「君たち」「お前ら」とは呼ばない。勝っても「みんな頑張った」と言わないし、負けた時も「君たちダメだね」とも言わない。勝った試合でも頑張った選手がいれば、サボった選手もいる。負けた試合でも必死で努力した選手はいる。勝ったから「みんな頑張った」では、頑張ってない選手は「これでいいんだ」と思ってしまうし、発展はない。だから今でも、マルとバツをはっきり言う。

子どものサッカーに関わって7年後の78年の第2回全日本少年サッカー大会から、大会の実施委員長になった。日本サッカーの将来のためには育成が必要だと考えたが、当時、日本サッカー協会には苦しい台所事情もあって財政面の問題で育成に消極的な人も少なくなかった。しかし小野卓爾(たくじ)専務理事の強烈なリーダーシップがあって育成に力を入れることができた。

最初は大人と同じピッチ状況で試合を実施したが、回を重ねるごとに子どもの体格に合った規格に徐々に変更された。ゴールとボールの大きさをひと回り小さくしたり、人数を11人ではなく7人にしたり、8人にしたり。今後も試行錯誤しながら、みんなで協議しながら改善策を練っていくことだろう。

80年代には初めて女の子(山形県代表)を全国レベルの公式戦に出場させた。ケガの恐れなどから、反対もあったが「やってみようよ」と、最終的には私の決断で出場させ、ケガをしないかと、ドキドキしながら試合を見守ったことを覚えている。今は女の子が少年サッカーの公式戦に男の子と交じって出場することもあるが、当時は他に例のない、極めて珍しいことで今思えば、いい決断だと思っている。

Jリーグができたことや日本代表がW杯に7大会連続出場したことなど、要因はいろいろあるだろうけれど、サッカー少年の数が野球少年の数より多くなったことは、サッカーに関わる人間として幸せに思う。ボールを追う少年少女たちを大事に育てることは、我々大人の責任だし、将来、日本が世界一になる原動力となるだろう。(大澤英雄=学校法人国士舘理事長)