日刊スポーツ評論家のセルジオ越後氏(77)が、日本サッカー殿堂入りを果たした。来日後、日本全土に足を運び、長年に渡って普及に尽力したことなどが評価された。本紙にコラムを寄稿している学校法人国士舘理事長の大澤英雄氏(87)も、指導者となって60年以上の実績が評価され、ともに名を連ねた。掲額式典は、日本サッカー協会の創立記念日である10日に行われる。ニッカンと関わりのある2人の功労者に、殿堂入りまでの道のりを聞いた。【取材・構成=盧載鎭】

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72年に初来日した。既に現役を引退して3年が立っていた。

来日前の3年間、サンパウロで鉄鋼会社の営業の仕事をしていた。藤和不動産からアマチュア契約のオファーが届き、社長に相談した。

「日本に行きなさい。日本の文化と言葉を覚えて、また会社に戻ってくれ。うちの会社はこれから日本との貿易を考えているからね。せっかくの留学のチャンスだ。しかもお金をくれるんだぞ」

そう言われた。留学か。当時の日本は、サッカーで生計が立てられる国ではなかった。サッカー選手というより、ビジネスのための留学のつもりで来日した。日本で言葉と文化を吸収してからブラジルに戻って、営業マンとして日本相手にビジネスで成功したいと。

しかし現状はそう甘くなかった。午前、午後の練習漬けであまり日本文化に触れる機会はなかった。ブラジル移民2世で、親が日本語でしゃべると私はポルトガル語で返していたので、来日前から日本語を聞くことはできていた。

2年半が立ち、サッカー部が廃部になり、仕事がなくなってブラジルに戻った。仕事を探そうとすると、日本サッカーリーグ(JSL)1部の永大産業の監督がサンパウロに来た。「もう選手はやりませんよ」と伝えると「コーチをやってくれ」ときた。選手は練習漬けだけど、コーチならスカウトもあるし、日本各地を回れる。再び来日した。多くの出会いがあった。

しかし2年後、永大産業も廃部となった。仕事がない。就労ビザも切れる。ブラジルに戻るしかなかったが、会社の配慮で1年間のビザの延長ができた。

そのような状況下、78年に「さわやかサッカー教室」の話が来た。「25年間、日本全土で1000回以上実施し、50万人以上の少年少女を指導したことが、今回の殿堂入りの主な理由」と聞いた。当時はサッカー少年への強化がメインだったが、私は普及が大事と主張し、日本サッカー協会は、私のわがままを聞いてくれた。

ブラジルは子供にサッカーを教えない。一緒にサッカーを楽しみ、自然に伝えることでうまくなる子もいるし、サッカーファンになる子もいる。それがサッカー文化。わずかかもしれないが、日本にサッカー文化を紹介したことを評価してくれたことに感謝して、お礼を伝えたい。(日刊スポーツ評論家)