サッカー界にちょっとした“ざわつき”があった。12月12日、ガンバ大阪の取締役強化・アカデミーアドバイザーだった上野山信行(62)の同31日付での辞任と退職の発表があった。同時にJ3カマタマーレ讃岐から20年1月1日付で上野山のゼネラルマネジャー(GM)就任も発表された。この時期は選手の移籍は日々決まっていくが、ここまで実績ある背広組の転職は珍しい。

上野山といえば、G大阪の基礎を築いた人物といっても過言ではない。90年代は主にユース監督など指導者として宮本恒靖(現G大阪監督)、稲本潤一(現J3SC相模原MF)、家長昭博(現川崎フロンターレMF)ら、のちに世界に羽ばたく選手を育てた。

その後も宇佐美貴史(現G大阪FW)らがいたアカデミー(下部組織)を強化し続けてきた。最近は取締役としてクラブ全般を強化。いわゆるJリーグ屈指の名プロデューサーだった。その多くを見てきた記者は、上野山が生涯ガンバ愛を貫くと思い込んでいた。だから直接、確かめずにはいられなかった。

「62、63歳になって、このままガンバにいていいのかと考えていた。もっと自分が進化しなければと。そこに讃岐から声をかけていただいた。『Jリーグ百年構想』を考えたら、僕は(前身松下電器時代の91年からG大阪にかかわって)まだ28年。経験値を讃岐に評価してもらい、最後の奉公をさせてもらおうと決めたんです」

1993年に発足したJリーグは、サッカーを通し、あらゆるスポーツを老若男女が楽しめる豊かな国を目指す趣旨で「Jリーグ百年構想」というスローガンを掲げる。その理論で言えば、上野山のJリーグ人生は、まだ“28歳”という計算だ。

もう1つ気になったのは、自ら育てた監督宮本は就任1年半で、そのほとんどをJ1残留争いに身を置いた。選手では成功したが、監督として道半ばの愛弟子と別れていいのか。記者の質問に対し、「情けは伏せさせてください」という上野山の答えは、あえてあっさりしていた。

宮本へのメッセージを求めると「まだまだ、学びが足りない」と前置きした上で「すべて自己責任と考えて、日々の指導を振り返って、前へと進んでほしい」と静かに語り始めた。

「日本協会は指導者の考え方として『学ぶことをやめたら、教えることをやめなければならない』という、フランス代表コーチ、監督だったロジェ・ルメール氏の言葉を推奨しています。そういう姿勢が大切です。指導者はユーモアも大事。パナソニック(松下電器)を一代で築いた松下幸之助さんは、リーダーとして大切な資質は『愛嬌(あいきょう)』と言った。そんな言葉を、彼に送るので十分と違いますか」

上野山は宮本には直接、今回の辞任と退職について伝えた。少し驚きながらも淡々とした表情だったという。

上野山に一番の思い出を聞くと、数秒考えたのちに「Jユース杯の初優勝かな…。あの優勝があったから、育成が大事とクラブに分かってもらえた。そこから結果も出始めた」。

G大阪ユースに入った当時15歳の宮本。高校サッカーではなくJリーグのアカデミーを選んだのは、上野山という指導者がいたから。宮本が高校3年だった1994年12月24日、第2回Jユース杯決勝(平塚)で、ヴェルディ川崎に3-2のVゴール勝ちを収めて初優勝を飾った。

当時の映像を見直すと、今よりもっと鋭い顔つきの上野山が監督としてベンチにいた。背番号5で左腕にキャプテンマークを巻いた宮本が、勝利の瞬間、上野山の元に駆け寄っている。2人には当時から固い絆があった。

上野山が新たに挑戦する讃岐は18年までJ2で、19年はJ3で戦い、18チーム中14位に沈んだ。18年の讃岐の人件費は約3億円、G大阪は約21億円。使える金額は雲泥の差だが、上野山は悲観はしていないという。

G大阪はU-23チームが讃岐と同じJ3で戦ってきた。そのレベルを熟知する上野山は決意を語る。

「G大阪U-23は若手とユース選手の連合チームでやって、そこそこ他と対等にできた。讃岐でも若い選手とベテランの融合で何とかできる手応えはある。選手には潜在能力あるからJ2に上がれる環境を僕が作るし、J2でプレーして稼げる選手にする。それが僕の仕事。僕にはG大阪でのロジックがあるし、讃岐の選手を一人間として成長させたい。言い訳しない、自己認識する選手を作りたい。リベンジという言葉は一番嫌い。その時、負けたことを常に反省し、考え抜いて成長につなげてほしい」

「讃岐では、あかんことはあかんと(メディアに)書いてもらいます。これで僕も視野が広がる。讃岐では選手に『ありがとう』『ごめん』を言います。対等の関係で質問攻めにしていきます。打倒ガンバなんて、おこがましい。将来的に讃岐の人が成長して幸せになったらいい」

人材育成のプロを失ったG大阪が来季、どう組織を強化していくのか。上野山の指導を仰いだ、現強化部長の松波正信(45)は「当時教わってピンと来なかったことが、今大切だと分かった。それを我々がどう生かしていけるか」という。

そして監督宮本はどんな指導者へと成長していくのか。上野山は、四国・香川でどんな魅力あるクラブを作っていくのか。取材すべきことが増えた。(敬称略)【横田和幸】


◆上野山信行(うえのやま・のぶゆき)1957年(昭32)5月26日、大阪市生まれ。大阪府立摂津高を経てヤンマーのDFで活躍。91年松下サッカークラブ設立準備室入社、92年G大阪育成部長(兼ユース監督)、97年強化部長、98年サテライト・コーチ、08年取締役育成・普及部長などを経て、09年Jリーグ出向で技術委員長就任。14年G大阪アカデミー本部兼強化本部担当顧問、取締役アカデミー本部・強化本部担当、18年から現職に。


◆横田和幸(よこた・かずゆき)1968年(昭43)2月24日、大阪生まれ。91年日刊スポーツ入社。96年アトランタ五輪、98年サッカーW杯フランス大会など取材。広島、G大阪などJリーグを中心にスポーツ全般を担当。