歴史的な勝利に、胸が熱くなった。横浜Fマリノスの500勝。1993年(平5)5月15日にヴェルディ川崎(現東京V)相手に1勝目をあげてから30年目。新旧は違えど同じ「聖地」での節目の勝利だった。

「ここまで積み重ねてきた結果だからね。すごいと思うよ」。2アシストした水沼宏太の父で、1勝目に貢献した貴史氏は言う。自身は同時刻の柏ー鹿島戦の解説だったが「試合が終わってすぐに知った。うれしかったな」。30年を振り返って話した。

記念すべきJリーグ1勝目の決勝点を呼び込んだのは、貴史氏だった。1ー1の後半14分、井原正巳の縦パスを木村和司が頭で落とし、走りこんだ水沼がシュート。相手DFの好守にあったが、こぼれ球をディアスが押し込んで決勝点にした。

「(長男は)同じ32歳で、同じポジション(右MF)。僕のはアシストではないけれど、最後に決めた選手の背番号も同じ9。巡り合わせを感じるね」と感慨深げに言った貴史氏は「でも、一番喜んでいるのは宏太だと思う」と続けた。「ここまで苦労したからね」と話した。

横浜ユース時代から期待された宏太は、17歳でJリーグデビュー。すぐにトップチームに昇格したが、出場機会に恵まれずに栃木SC、サガン鳥栖、FC東京、セレッソ大阪と渡り歩いた。10年ぶりにマリノスのユニホームに袖を通したのは2020年。しかし、なかなか定位置をつかめず、昨年もスタメンは1試合だけだった。

今季開幕前、貴史氏は「ユニホームの名前を変えたい」と相談を受けた。それまでの「KOTA」から「MIZUNUMA」へ。「マリノスの歴史や水沼という名を背負うつもりだと思った」と貴史氏。その覚悟を、頼もしげに見ていた。

貴史氏は、同じ横浜の木村氏らと日本サッカー界を支えてきたスター選手。宏太が偉大な父の存在に悩み、苦しんできたのは間違いない。だからこそ「KOTA」でプレーしてきたが、クラブの歴史を知り、その歴史を背負う覚悟を固めたことが「MIZUNUMA」につながった。

「今年はスタメンでも出ているし、プレーもよくなった」と貴史氏は目を細める。「ただ、宏太自身もマリノスもまだ通過点。これで終わりではなく、この先が大切」と貴史氏は力を込める。

J開幕前、貴史氏は当時の日産獅子ケ谷グラウンドでの練習に、宏太を連れてきていた。ボールを蹴って遊ぶ姿を見ながら「この子たちが大きくなった時のために、Jリーグは成功させなきゃいけない」と話していた。

30年目。宏太もマリノスも、そしてJリーグも、決して順風満帆だったわけではない。それでも、試行錯誤を重ね、努力を続けてきたからこそ今がある。あの日、貴史氏のシュートから、新しい時代の扉が開いたように、宏太のアシストも次の時代への1歩であってほしい。Jリーグも、日本サッカーも、まだまだ続くのだから。【荻島弘一】(ニッカンスポーツ・コム/記者コラム「サッカー現場発」)

◆水沼貴史(みずぬま・たかし)1960年(昭35)5月28日、埼玉県生まれ。浦和南高-法大。83年に日本リーグの日産(現横浜)入り。木村和司らと黄金期をつくり88、89年にはリーグ、リーグ杯、天皇杯の連続3冠も達成。日本代表では32試合出場7得点。95年に横浜でJリーグの年間王者になった後に引退。その後、解説者、指導者として活躍。古巣横浜でも監督、コーチを務めた。

清水対横浜 J1リーグ通算500勝を飾り、笑顔で写真に納まる横浜の選手たち(撮影・江口和貴)
清水対横浜 J1リーグ通算500勝を飾り、笑顔で写真に納まる横浜の選手たち(撮影・江口和貴)
清水対横浜 試合後、J1リーグ通算500勝で写真に納まる横浜水沼(左)とマルコス・ジュニオール(撮影・江口和貴)
清水対横浜 試合後、J1リーグ通算500勝で写真に納まる横浜水沼(左)とマルコス・ジュニオール(撮影・江口和貴)