2004年アジア杯は、日本代表の2大会連続3度目の優勝で幕を閉じた。ただ、大会が開かれた中国国内では反日行動が激化し、スポーツと政治が絡み合う大騒動にまで発展した。担当記者が振り返る。

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伝えることは難しい。つくづくそう思った。

サッカーアジア杯で訪れた中国で直面した反日行為やブーイング。現場にいた人間として事実もあれば誇張報道もあった。いろんな事があった25日間だった。

7月15日。日本代表が深夜に到着した重慶空港。花束を持った小学生の歓迎式典長い夏が始まった。練習場には近所のおっちゃん(まさにそんな格好)が集まり、代表宿舎にはサインを求めるファンもいた。歴史や政治を持ち出す雰囲気はなかった。ところが試合になるとブーイング。最初は地元重慶のプロサッカーチームの応援団があおり、悪乗りしている感じだった。

反日感情なのか。マナーの悪さなのか。日本報道陣も連日、話題になった。結論は出てこない。国際大会の観戦経験がない重慶市民のつたない行動という中国紙記者の意見もあった。日本でも歴史的背景(日本軍が爆撃した過去)と結び付ける報道が出始めた。

ブーイングはバッシングに変わり、アウエーの洗礼で片づけていたジーコ監督も君が代演奏の妨害行為に、切れた。「国歌演奏は敬意を払うべき。スポーツと政治は別」。発言はアジア杯公式サイトに掲載された。執筆したニック・マコーマック記者に狙いがあったのかどうか。少なくとも日中両国への配慮は感じられなかった。見出しも「boo−boys」と挑発的だった。中国報道陣は見ていた。日本にも報道される。海外にも打電。代表監督に政治的発言をさせるのが狙いなら意図的と思えた。

報道合戦がレールに乗った瞬間だった。

8月1日。済南での監督会見。日本協会発行の海外メディア向けの小冊子の中のアジア地図。開催国中国の部分に色が塗られていたことを指摘した記者がいた。中国入りして18日目。実は公式会見で初めて政治的な質問が飛び出した。ジーコ監督は小冊子の存在さえ知らずに答えたが、通訳が中国報道陣に伝える前にレバノン人の広報責任者が独断で質疑を打ち切る。中国報道陣の怒りは色分けではなく、質問の制止に不満を唱えたのだが。騒ぎ=尖閣諸島の領有権問題へと発展してしまう。

そして日本が決勝へ勝ち上がり、中国も勝ち上がる。どちらも劇的に。スポーツも政治もごちゃまぜの「決戦」になった。もう止まらない。日本では政治家が発言し、政府まで動き始める。中国政府も「過剰な一部報道」と日本側をけん制する。サッカーの大会ではなくなった。

大会途中から「現場にいない人たち」の発言や記事が飛び交い、政治色の強い大会へと塗りかえられていった。かと思えば両国と関係ないアジアサッカー連盟関係者は決勝戦後の騒乱状態の時に、武装警官の隊列を横目に特設テントでワイン片手に打ち上げをしていたのだから。これもまた現実だった。

伝える側が事実のどの断片を切り取るか。もちろん事実にわい曲や誇張があると、もつれた糸はほどけるはずもない。記事や映像の持つ影響力の大きさ。帰国してもまだ、あの25日間のことを考えている。【田誠】