日本代表FW古橋亨梧(26)は日の丸を背負い、W杯アジア最終予選のピッチに立っている。華々しい今の姿からは想像できないが、中大4年時にプロ入りが12月まで決まらず一時はサッカーをあきらめかけていた。急転、J2岐阜への入団が決まると、そこからJ1神戸、スコットランドの名門セルティックとスピード出世。サッカー界のアメリカンドリームをつかんだ。中大時代に古橋を指導した佐藤健監督に、当時の知られざる逸話を聞いた。

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中大4年の16年11月末。Jクラブの練習に参加しては内定が出ない日々に、古橋は佐藤監督の前で泣いた。「もう、サッカーをあきらめなくちゃいけないですかね…」。佐藤監督は、これまで中村憲剛氏ら数多くのプロ選手を送り出しており、古橋はプロで通用する確信を持っていた。「大丈夫。絶対に(プロに)行かせるから。あきらめるな」と励まし続けた。

それから5年。海外に羽ばたくと、セルティックではハットトリックの衝撃デビュー。佐藤監督は「行くところ、行くところで活躍しますね。そんな選手はいないでしょう」と目を細める。

中大へは、大阪・興国高との縁で入学した。スタイルが似ている両チームは毎年、練習試合を行っており、佐藤監督は古橋の抜群のスピードと、両足を使える技術を見て、すぐに獲得を決めた。「両足のインステップのトラップ、浮き球のトラップを普通にやってましたね」。大学に入学すると、1年生の6月に公式戦デビュー。途中出場ながら、デビュー戦でゴールを決めた。

大学時代は2列目の左、右が主戦場だった。50メートル走の5秒8は今でも記憶に残っている。「陸上部並みです。速かった。ボールを持ってもスピードが落ちなかった。今のままのプレースタイルですね」。2学年上で背番号「10」の砂川優太郎がパスを出し、古橋は、そのパスに裏に抜け、得点を重ねていった。まさに現在のスタイルだ。

だが砂川が卒業すると、攻撃のすべてを1人で担わなくてはいけなくなった。佐藤監督は「自分がドリブルで抜いたり、出し手になったりとか。そういう部分で彼なりの今のスタイルを生かすことができなかった」。大学3年で関東1部からの降格が決まり、大学4年は2部での戦いを強いられた。

JクラブからJ1、J2、J3の7クラブが興味を示していた。4年の公式戦では、他チームから厳しいマークにあい、2、3人に囲まれると突破ができない現実があった。5クラブほど練習参加にも行ったが、内定は出ない。あるクラブからは「あれぐらいのスピードの選手はいる」との評価を受けた。同学年の選手がプロの内定を勝ち取る中、古橋は11月末になっても進路が決まらなかった。

サッカーの道をあきらめかけたとき、不思議な縁が訪れた。16年11月末に、大木武氏(60=現J3熊本監督)が岐阜の監督に就任することが発表され、佐藤監督は偶然、そのニュースを目にした。佐藤監督と大木氏は、現役時代から交流があった。大木氏のサッカーのスタイルは、必ず古橋に合う-。連絡先も知っており、大木氏と岐阜の強化スタッフに「(古橋を)見てくれないか」と電話した。古橋は12月に岐阜に練習参加。その後、佐藤監督が大木氏に電話を入れると「本当に、どこも引っかからなかったんですか?」と驚かれた。もちろん、内定の通知が届いた。苦労の末、やっとプロの世界の扉を開けることができた。

佐藤監督は「たまたま、大木監督就任という記事を見たのが大きかった。大木監督が就任していなければ、岐阜にいなかったと思う」と不思議な縁を感じている。J2から海外へ飛び出し日本代表へ。佐藤監督も「アメリカンドリームですよ。自分の特長をちゃんと見いだせば、チャンスは絶対にあると思います。日々努力してますから」と懐かしむ。古橋のステップアップの道は、来年のカタールまで続いている。【岩田千代巳】