第100回の記念大会となる全国高校サッカー選手権は28日に開幕する。今季限りで現役引退したC大阪の元日本代表FW大久保嘉人(39)が、高校生にエールを送った。
長崎・国見高校時代の00年度に高校3冠を達成。高校総体(インターハイ)で10得点、選手権は8得点でいずれも得点王に立った。夢舞台に立つ選手へ「楽しみながら輝いて欲しい」と訴えかけた。
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ライバルの存在が、高校生だった大久保を成長させた。国見高の同学年にはMF川田和宏という選手がいた。福岡大を経て当時J1の大分、JFLの鳥取、地域リーグの松本などでプレーする。2人は同じ福岡の出身で、中学から下宿生活をしながら長崎の国見中に進んだ。猛烈に意識する存在だった。
大久保 川田とは小学校からの付き合いですね。北九州選抜から一緒。スゴイ選手やった。でも、(中学高校と)全くしゃべってない。そいつが点を取っても俺は喜ばんし、俺が点を取っても川田は喜ばんかった。ひと言も話さなくても、パスは出してきた。どっちも負けず嫌いやし、勝ちたいって思いがあった。
高校を卒業し互いにプロの道に進んでも、連絡を取り合うことはなかった。大久保が神戸時代の08年と、川崎F時代の16年天皇杯で2人は対戦。16年を最後に、川田はユニホームを脱ぐ。当時はJ3の秋田に所属。引退発表時、こんなコメントを出した。
「大久保嘉人の存在があったから、今まで頑張ってくることができました」
大久保 俺が引退を決めた時、連絡をしました。アイツも辞める時に電話をくれたから。たいした話はしていない。「辞めると思ってなかったから、寂しい」みたいに言ってくれた。
そんな2人が力を合わせ、輝いた時があった。00年度に小嶺忠敏総監督(現長崎総科大付監督)率いる国見高は総体、国体(国見高の単独出場)、選手権の3冠を達成。大久保、川田とともに、後に大分や神戸でプレーするFW松橋章太、1学年下には東京入りするDF徳永悠平らがいた。負けないチームが完成した背景には、反骨心があった。
大久保 俺らの世代は「国見史上最弱」と呼ばれていた。全国に出ても優勝できないと言われた。2つ下にはDFの渡辺大剛(京都、大宮などに在籍)たちがいて、3年計画でコイツらを優勝させるってうわさが流れていて、1年はブラジル遠征に行ったりしていた。そんな環境やったから「ふざけんな! 俺たちが優勝してやる」っていう感じで絆が生まれたんです。
練習は想像を絶する厳しさだった。300メートル走から12キロ走まで時間設定された走り込みは過酷を極めた。日が沈むのが早い冬場は、ジャージーに工事用の反射材を付けて走る。暗闇に反射材が動く光景を、周囲の人は「キツネ火」と呼び、国見の風物詩でもあった。
大久保 マガト(ドイツ・ウォルフスブルク時代の監督)もかなり厳しかったけど、国見は比べものにならんほどだった。相当キツくて、倒れたヤツが何人もおった。でも、あの練習で自信が付いて「俺たちならできるわ」って気持ちになっていた。
時が過ぎても選手権の記憶は鮮明に刻まれる。2年時の99年度は、2回戦で元日本代表の松井大輔擁する鹿児島実に0-2で敗れた。そして集大成の00年度は8ゴールで大会得点王に立つ。決勝の草津東戦は2得点を挙げ3-0で快勝。最も印象的なのは6-0で大勝した3回戦の日章学園戦だという。
大久保 39度の熱が出て歯も痛かった。正月でどこも病院がやっていなくて、急ぎで病院を開けてもらったけど体調は最悪。小嶺先生も心配してくれて「嘉人どうする?」って言われたけど、無理やり出て4点取ったんです。国見は選手権の時、長崎から小嶺先生の運転するバスで、各地で試合をしながら東京に向かう。決勝の相手の草津東とは直前に試合をして勝っていたから重圧もなかった。
あれから21年。第100回大会へ向かう高校生へ、伝えたいことがある。
大久保 高校生活最後の大会で、アピールするチャンスやと思う。みんながテレビを見ているし、楽しんで輝いて欲しい。青春が長く続くようにね。俺の長男も高校1年生。来年は選手権に出て欲しいですね。【取材・構成=益子浩一】
◆大久保嘉人(おおくぼ・よしと)1982年(昭57)6月9日、福岡・苅田町生まれ。国見高から01年C大阪入り。04年マジョルカ、07年C大阪から神戸へ。08年ウォルフスブルクで長谷部とともにブンデスリーガ優勝を経験。09年以降は神戸、川崎F、東京、川崎F、磐田、J2東京Vへ。今季からC大阪に復帰しシーズン終了後に現役引退。04年アテネ五輪代表。日本代表として10、14年W杯出場。国際Aマッチ通算60試合6得点。家族は夫人と4男。170センチ、73キロ。



